私のミニ黙想や面白い物語
  毎月新しいミニ黙想を加わえます。
(この話をdiaporamaのページでもっと楽しく、美しく味わいます)


 注意:
         このページでは  2011年5月から2018年8月までの話を読めることができます
    のリンクをクリックをすると 2018年9月からの話を紹介します。

          

亀婦人と鶯婦人

 あるところに、亀婦人と(うぐいす)婦人の二人がいました。二人は朝から夜までいつも色々なことで口喧嘩をしています。

 鶯婦人は亀婦人に言います。「私は色々な害虫を食べるので、人間の畑の収穫の役に立っていますわ。しかし亀夫人、あなたは逆に人間の庭の野菜や果物をガツガツと平気で食べる、恐ろしい寄生虫じゃないですか」。すると亀夫人は負けずに言い返します。「私は生き続けるのにどうしてもカルシウムが必要なんです。それに私はいつも新鮮なものばかり食べています。しかし、あなたはいつも変な虫ばっかり食べているので、そのうちきっと病気になりますよ」。鶯婦人も負けていません。「そんなことで私が病気になるかどうかなんてわかりませんわ。それにしてもあなたは歩くのが遅すぎませんか。あなたのようにのんびり過ぎる生活は良くありませんよ。人のことを言う前に、もっとご自分の周りの世界をご覧になったらどうですか」。

 亀夫人は言い返します。「あら、ご存じないのですか。ゆっくり歩くと長生きできるのですよ。私の親戚はみんな百歳以上生きていますよ。」 そう聞くと、またすぐに鶯夫人が言いました。「亀夫人、あなたはあまり動かずにこの辺で見つけた野菜を一日中食べていますね。運動不足のせいで太っているのではないですか。私はいつも遠くまで食べものを探しに飛んで行くので、体も軽くて元気ですよ」。「あら、そうですか、鶯夫人。あなたも卵を産む時、私同様、動かずにじっとして子どもを守っているのではないでしょうか」と亀婦人は言い返しました。

「そりゃ、動かないで子どもを守るのは当然です。子どもたちをあらゆる危険から守り育てるのは親の責任ですから。それにしても、亀夫人、あなたは卵を産んでも守ろうともしませんね。全く世話をしないなんて、無責任です。蛇が卵を飲み込んでもまったく悲しみませんものね。あなたには母親の心がないんじゃないですか」と鶯夫人は自慢しながら言い返しました。「鶯夫人、あなたは子どもを守りたいとおっしゃいましたね。ご覧なさい、あなたの巣の作り方を。まるでボロ家じゃないですか。藁や拾った小枝で作った、ごみだらけの家ですね。こんなところで子どもを育てたいのですか。強風が吹いたら、あっと言う間にその巣はどこかへ飛ばされるでしょう。蛇が木に登って来てあなたの子どもを食べてしまうでしょう。ご覧なさい、私の甲羅の方がよっぽど快適ですよ。固くて安全だし、何処にでも運べますしとても便利です。あなたの住む巣はとても危なくて、不安定ですよ。きっと私の丈夫な甲羅の家に嫉妬しているのでしょ」。

「そんな、とんでもないです。私の家がごみの巣だとおっしゃいましたが、ここには幸せがいっぱい溢れています。この巣でも十分広いですから、子どもたちと一緒に色んな事を楽しめますよ。一緒に食事を食べたり、空を飛んだり、他のところの地上の景色も空の上から見えます。しかし、あなたの甲羅の家は狭すぎて、誰も入れないでしょ。あなたは毎日、さぞ寂しいことでしょうね。いつも一人でいるなんて、まるで隠遁者です。大切な子どもさえいません。何と暗く、希望の無い、利己主義な生活でしょう」。鶯婦人はあざ笑って答えました。このように、いつも二人は出会うたびに口喧嘩をしていました。

 口喧嘩をする人は、自分の自慢をしながら、必ず他人が傷つく言葉や悪意のある考えを自分のうちに育てているのです。自分の生き方と他の人の生き方を比べる人も、自分の中に嫉妬の気持ちが育っていき、やがて悪意のこもった眼差しで他人を敵のように見るようになります。「悪魔のねたみによって死がこの世に入りました」(知恵2,24)と知恵の書が教えています。「あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです」(ヤコブ3,14-16)と、聖ヤコブも説明し忠告しています。キリストに属する私たちは、平和と理解を示し、慈しみと哀れみの眼差しを注ぐように召されています。侮辱されても、悪者にされても、悪意のある言葉の犠牲者になっても、いつもキリストの愛の心を持ちましょう。そしてキリストの考え方を自分の答えにしましょう。


小鳥の3つの真実の言葉

 森に小さな小鳥がいました。毎日、楽しく遊び回っていた小鳥でしたが、ある時狩人の罠にかかってしまいました。生き残るために小鳥は次のような申し出をしました。「狩人さん、私を自由にしてください。その代わりに一生役に立つ三つの真実の言葉を教えます。それは決して私が逃げるために言うのではありません。第1の真実の言葉は、あなたの手の中に捕まえられている今、打ち明けます。第2の真実の言葉は、あなたの肩の上で打ち明けます。最後の第3の真実の言葉は、近くの木の枝の上で打ち明けます。そうすれば、いつでもあなたは私を捕まえることができます。」狩人は小鳥の言葉を信じ言うとおりにすることに決めました。「もし、俺に3つの真実の言葉を教えてくれたら命を救ってやろう」と狩人は約束しました。

 小鳥は3つの真実の言葉を話し始めました。「第1の真実とは『失われたものに対して後悔しないこと』です。人生は常に前に向かって進んでいるので、過去の出来事に対する後悔や悔しさは、人生に対して邪魔なものです。明日という日は決して昨日に脅かされていないはずです。過去に閉じこもる人は決して幸せになれません」と小鳥は説明しました。狩人は少し考えてこの教えに賛成したので、小鳥は狩人の手の中から離れ彼の肩の上に飛んで来ました。

 「第2真実とは『非常識ででたらめの話を信じないこと』です。非常識で出鱈目の話を聞いたら、それを信じる前にまず証拠を求め、詳しく確かめなさい」小鳥はそう言いました。狩人は、この教えも役に立つと思い、小鳥が近くの木の枝に飛んで行くことを許しました。

 木の枝の上から小鳥は続けました。「第3の真実とは『あなたは愚かな人であるということ』です。私の胃袋の中に50グラムの二つのダイヤがあります。私を自由にしてしまったので、そのダイヤを手に入れ損ないました。それどころか、私の肉で美味しいご馳走を作るチャンスも失いました。私は約束通り3つの真実の言葉を語りましたので、私の命は救われました」そう言って小鳥は笑いました。狩人は非常に恥ずかしくなり、小鳥を自由にさせた自分の愚かさを悔やみました。

 それを見て小鳥は言いました。「あなたは本当に愚かな人ですね。第1の真実で『過去について後悔しないこと』と言ったのに、もうあなたは後悔しています。第2の真実の言葉で『非常識で出鱈目な話を信じないこと』と言いましたよね。よく考えてください。私の体は小さく体重は30グラムもありませんよ。ですから、私の胃の中に50グラムもあるダイヤを2つも入れることはできないしゃありません。あなたも他の狩人と同じ愚かで騙しやすい人ですね」と言うと、小鳥は安全な所へ飛んで行ってしまいました。

 聖書には「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」(参照:1テサロニケ5,21-22)とあります。巧みな作り話に」(参照:2ペトロ1,16、テトス1,14)耳を傾けないように教えています。また「真理はあなたたちを自由にする」(参照ヨハネ8,32)とイエスは断言しました。過去の後悔が私たちの心を傷つけることのないように、また、非常識で出鱈目の話が私たちの人生に害を与えないように注意しましょう。そして真理を揺ぎ無い土台にし、今日の現実にしっかりと足を下ろし、力のかぎり未来に向かって進む懸命な人間になりましょう。そして本当の自由の素晴らしさを深く味わいましょう。


 奇跡の話

―その1―

  パリの大聖堂の広場。有名になることを夢みている若い歌手が、小さな演奏会を無料で開いていました。ギターの音に合わせて歌い始めると、すぐに大勢の人が集まりました。若い歌手の歌を群衆は静かに聞き始めました。数分も歌っていないうちに、ある男性が大聖堂の門の上を指差しながら叫びました。「見よ、聖母マリアが泣いている!」すると群衆は一斉に聖母像を見上げました。「本当だ、マリア様が泣いている」、「奇跡だ!」、「信じられない」。人々は声を上げました。驚いてあっけにとられていた人々の中には、この出来事を忘れないように写真を撮り、マリア様に拍手を送る人もいました。若い歌手は自分の演奏と歌が、マリア様の心を揺り動かしたと思い、とても幸せでした。

  一週間後、若い歌手はもう一度パリの大聖堂の広場で新しい演奏会を開こうとしました。しかし、彼が演奏を始める前のことです。門の上の聖母マリア像の腕に抱かれた、幼いイエスが立ち上がって大声で叫びました。「どうぞ、お願いです。歌わないでください。先週あなたの演奏と歌を聞いてお母さんが泣きました。あなたの歌はあまりにも調子外れだからです」と。

  勿論、この物語は作り話です。神の栄光を歌う人が調子外れに歌っても、神の心を揺り動かすのです。神に歌われる賛美と感謝の歌は、必ず変容された状態で神に届きます。そして、歌った人も美しくされます。ですから皆様、遠慮なくありのままの声で神の賛美を歌ってください。もし、聖母マリアが涙を流すなら、それはきっと喜びの涙ですから。

―その2―

 ある町に5歳の少年がいました。少年は神様にキスしたいと強く望んでいました。ある日、家の近くの公園へ行きました。長いすに座って鳩にパンくずを与えているお婆さんの姿を見て、少年は足を止めました。少年はお婆さんをよく観察してから、近寄って訪ねました。「お婆さん、いま何時ですか。お母さんが遅くまで外で遊ばないようにと言っていますので…」と丁寧に尋ねました。お婆さんは少年を見つめて優しく微笑みながら、時間を教えてくれました。お婆さんの優しさに憧れた少年はこう言いました。「お願いがあります。あなたにキスしてもいいですか?」お婆さんは快く「はい。いいですよ」と言いながら少年のキスを受け、彼を強く抱きしめました。

  少年は家に帰るとすぐに「お母さん、僕は神様と会って、抱きしめられたんだよ。神様にキスもしたんだ」と言いました。お婆さんも、自分の家に帰りました。お母さんに会いに来ていた息子が待っていました。「お母さん、今日はどうしてそんなに幸せそうにしているのですか? とても輝いているね」と息子が尋ねました。「今日ね、奇跡が起きたの。公園の長いすに座り、いつものように鳩にパンくずを与えていると、神様が私に近寄って来て、微笑んで私にキスをしたの」お婆さんは嬉しそうに話しました。

  「私たちが人にしたことは神ご自身にしたことである」ことを忘れないようにしましょう(参照:マタイ25,40)。さらに、私たちが子供たちのようにならなければ、天の国に入ることが難しい(参照:マタイ18,3) ことも思い起こしましょうね。


首飾り

  中世前期。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼をしていた信仰深い青年は、たいへん値打ちのある首飾りを大聖堂の広場で見つけました。彼が大聖堂の入り口にさしかかった時、その首飾りの持ち主に出会いました。首飾りを探していた持ち主は、青年が首飾りを手に持っているのを見て、「その首飾りは私が失った物です。私の可愛いひとり娘のために買った物です。しかし不注意によって落としてしまいました。どうぞ、その首飾りを私に返してください」と頼みました。青年は首飾りを持ち主に返しました。首飾りの持ち主は無上の喜びを感じ、青年に何も言わずにいそいそと大聖堂に入って消えてしまいました。大聖堂の前に立っていた青年は心の中で祈りました「主よ、私はあの首飾りを持ち主に返しました。ですから首飾りの代わりに値打ちのあるものを私に下さい」。

  フランスに戻った青年は、少し休息をとるため山の中にある村の小さな教会に入りました。教会の静かな雰囲気の中で、青年は自分の鞄から出した聖書を読み始めました。教会の中に居た3人の年老いた婦人は彼を見つめながら小さな声で自分たちの意見を相談しはじめました。3人の婦人は青年に近寄って「あなたは聖書を読めますか」と尋ねました。「はい」と青年は答えました。「町から遠く離れているこの村には学校がありません。司教様は私たちを導くために新しい神父を遣わすことは無理だとおっしゃいました。私たちは見捨てられています。この村で読み書きが出来る人はいません。あなたは読み書きが出来るので、ここに残って私たちにそれを教えてください。その代わり住む場所と正当な給料をお支払いします。どうか私たちを助けてください」と3人の婦人は懇願しました。

 「神様は私の願いに応えて下さったのだろうか…」。青年は思いました。考えた結果、彼はこの村に残ることに決めました。それから5年間、青年は村で生活をし、皆と一緒に仕事をしました。子供から大人、そしてお年寄りにも書くことと読むことを一生懸命に教えました。彼のお蔭で、日曜日には、皆が一緒に村の聖堂で祈り歌うことも習慣になりました。村の人々はとても幸せでした。ある日、村の人たちが密かに集まって青年へのお礼について考えました。そして村の人々は青年に言いました。「隣の村にとても優しく美しい女性が住んでいます。彼女は父親を喪って独りで住んでいますが、あなたが彼女と結婚するといいと思います。2人はとてもお似合いです。今日、彼女をここに連れて来ましたので、是非会ってください」。

 「この村人の誘いには神の導きがある」と思った青年は、快く彼女に会いました。彼女の首には美しい首飾りがかけられていました。青年はこの首飾りを見て直ぐに、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の広場で拾ったあの首飾りだと気がつきました。この首飾りについて尋ねた青年は、彼女から次の説明を受けました。「私の父は、私のために買ったこの首飾りを不注意から落としてしまいました。しかし、これを見つけた青年が何一つ報酬を求めないでこの首飾りを返してくれました。その時から死ぬ日まで、父は次のような祈りを神に捧げました。『この親切な青年のような夫を、私の娘に与えてください』」と。青年は「その首飾りを見つけて、お父さんに返したのは私です」と明かしました。青年は夢中になって、自分に示された神の摂理の不思議な神秘を詳しく語りました。青年は首飾りの値打ちを遥かに超えたものを受けたので、大いに神に感謝しました。村の人々の祝福の言葉を浴びながら、喜びのうちに隣の村の女性を妻として迎えました。

 日常生活の様々な出来事を通して、神のや歩むべき道を見分ける人は幸いです。また神に対して揺るぎない信頼を示し、すべてを委ねる人は必ず神の摂理の助けを受ける人であり、幸せと出会うのです。むかし絶望のどん底に陥ったユダヤ人たちは「あなたの神、主が、私たちが歩むべき道となすべきことを、私たちに告げてください」(エレミヤ42,3)と預言者エレミヤに願いました。私たちも幸せに導くこの道を神が教えてくださるように祈ってはどうでしょうか…。


脳みそ先生の知恵

  南フランスの小さな村に「脳みそ先生」と呼ばれている賢い先生が住んでいました。彼の指導や勧めを受けるために、隣の村や遠くの町から大勢の人が毎日ひっきりなしにこの村を訪れていました。脳みそ先生はユーモアのセンスを持ち、訪れる人々を驚かせる習慣がたびたびありました。ある日、脳みそ先生は「明日、私はみんなに役立つ面白い話をします。聞きたい人はぜひ教会の広場に集まってください」と言いました。

  翌日、教会の広場は話を聞こうと集まってきた人でいっぱいになりました。「さあ、それでは私が何について話すのか知っている人はここにいますか」と脳みそ先生が尋ねました。すると皆は声を揃えて「いいえ、分かりません」と答えました。「そうであれば、あなた方には私が話したいことを聞く覚悟がまだ出来ていません。また、明日もう一度来てください」と言うと、脳みそ先生は自分の家に帰ってしまいました。次の日、先生は昨日と同じように質問しました。「私が今から何について話すのか知っている人はここにいますか」。ある一人の人答えました。「はい、ここにいる何人かは知っています。しかし、まだ全く分からない人もいます」。その返事を聞いた脳みそ先生は「そうであれば、私たしが話さなくても、よく知っている人が私の代わりに知らない人に教えてあげれば良いですね」と言い、笑いながら自分の家に帰りました。

 別の日、暴力的な5人の泥棒の裁判が行われました。脳みそ生は責任者として裁判に出席しました。脳みそ先生は、囚人を1人ずつ別々に部屋に呼び全員に同じ質問をしました。「あなたは何をしましたか。なぜこの刑務所に入っているのですか」。4人の囚人は口々に「俺は何もしていない。これは大変な間違いだ。無罪なのに誤審のせいで入獄しているのだ」と答えました。しかし最後の1人は「私は有罪です。とても悪いことをしました。罰を受けるのは当然です」と真心から告白しました。それを聞いた脳みそ先生は看守を呼んで「この人を刑務所から直ぐ出して自由にしてください。自分の罪を認めた彼が刑務所に残るなら、無罪を訴えた他の囚人に悪い影響を与える危険性があるからです」と真顔で判決を下したのです。

 また別の日、脳みそ先生は新しい一万円札を群衆に見せました。「これを欲しい人がいますか」と尋ねました。大勢の人が直ぐ手を挙げて「私!」、「俺だ!」、「私も…」と答えました。先生はこの一万円札を強く丸めてクチャクチャにしました。「まだこのお札を欲しい人がいますか」そう聞くと「はい」、「はい、私も欲しい!」、「欲しいです」と皆が答えました。次に脳みそ先生は、この一万札を地面に落として足で何回も踏んでドロドロにし、たくさんの傷を付けました。「この汚くなったお札を欲しい人はいますか」と言うと、直ぐに皆が「はい」、「はい」と答えました。脳みそ先生は次のように言いました。「今あなた方は大切なことを学びました。この一万円札にどんなに酷いことをしても、このお札の値打ちは変わりません。同じように人生においてもあなた方が侮辱されたり、傷つけられたり、名誉を汚されたりすることがあっても、あなた方は神の目には尊い人です。どんな出来事もあなた方の命の値打ちを奪うことは出来ません。その大切な教えを忘れないように心に納めてください」そう言うと、脳みそ先生は一万円札を自分のポケットに入れ家に帰りました。

 「恐れるな。水の中を通るときも、火の中を歩いても、わたしはあなたと共にいる。わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛す」(参照:イザヤ43,1-24)と、神も私たちに教えています。悪口や災い、不幸な出来事、あるいは罪と死でさえ決して私たちが神の子として持っている資格の価値を下げることは出来ません。ですから、人々や出来事が私たちを悪い者とする時には、神の目で自分自身をよく見てみましょう。


黒い風船

  アメリカに住んでいる黒人の子供マブラは、小学校の同級生の白人の子供からいじめの言葉を浴びせかけられていました。「君はぼくたちと違う。ぼくたちと競い合っても貧しい君は絶対に勝つことができないさ」、「君の安っぽい靴じゃ、速く走ってもぼくたちに勝つことなんて無理だ」、「とにかく、君は低いレベルに生まれたから、努力しても偉い立場に立つことなんか無理なんだよ」と白人の子供たちが言うのが習慣でした。

  ある日のこと、町を歩いていたマブラは風船売りのおじいさんと出会いました。マブラの目は、色とりどりの風船を見て輝きました。おじいさんの持つ風船の中に、一つだけ真っ黒な風船がありました。黒い風船を驚きの目で見つめているマブラを見て、おじいさんは彼に尋ねました。「坊や、この風船が欲しいのかい?」マブラは「いいえ、お金がないから…」と答えました。「おじいさん、知りたいことがあるんだけど。この黒い風船も空に放したら他の風船と同じように空に高く昇っていくのかな?」とマブラは尋ねました。

  この質問を聞いたおじいさんは、即座にこのマブラがいじめられていると感じました。そこで、おじいさんはマブラを自分の椅子に座らせて「さぁ、坊や、よくご覧なさい」おじいさんはそう言うと、手に持っていたすべての風船を手から放しました。すると風船は、あっと言う間にぶどうの房のような形をしながら、空に向って昇っていきました。白い風船も、赤い風船も、もちろん黒い風船も、風に運ばれるまま、それぞれの風船は、とても高いところまで昇っていきます。目では見えなくなるまで、高く昇っていきました。

  「見たかい?」おじいさんは尋ねました。「うん、見ました。よく分かりました。黒い風船も他の風船と同じように、空に高く昇ることができました。おじいさん、ありがとう」とニコニコしてマブラは答えました。

  「そうかい、黒い風船も他の色の風船と同じように上へと昇ることが分かったんだね。それでいい。今、私が君に教えることをよく覚えておきなさい。風船は人間と同じなんだよ。色の違いや大きさの差ではなく心の中にあるものが大切なんだ。私の風船は、どんな色でも同じ空気で膨らんでいる。ただし、たくさんの空気を入れた風船は、他の風船よりも速く高く空に昇るんだ。同じように、いっぱいの優しさや寛大さで満たされた心を持っている人は、他の人よりも優れたことがたくさんできるんだよ。黒人であろうと白人であろうと、心の豊かな人はこの世界に役に立つとても偉い人なんだ。君はそんな豊かな心を持っていると、私は信じているよ」風船売りのおじいさんはマブラに語りかけました。

 「わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、わたしは心によって見る」(サムエル記上16,7)と神は教えています。ですから、自分の建前と本音を一致させ、差別的な態度を捨て、自分の言葉や考えや行いを愛と慈しみでいっぱいにしましょう。人を喜ばせましょう。そうすれば、風船売りのおじいさんが空に放った風船のように彩り豊かな人生を送ることができるはずです。


リンゴちょうだい

  桜ちゃんは隣のおばあさんから美味しそうなリンゴを2個貰いました。とても幸せになった彼女は家に帰ってすぐ、お母さんを呼びました。「お母さん、お母さん、大きなリンゴを貰いました。見て、ほら、美味しそうですよ」と言いました。目を輝かせている幸せそうな娘の顔を見ながら、お母さんは優しい声で「私に1つちょうだい」とお願いしました。暫くの間なにも答えず、桜ちゃんはお母さんの顔を見て、不思議な微笑を浮かべました。そして、急に2個のリンゴをそれぞれ一口ずつかじりました。

  リンゴをかじった娘を見て、お母さんはとても驚きました。自分の顔の表情から優しさが消えていくのを感じました。「自分の娘がこんなにもエゴイストだったなんて…」とショックを感じました。しかし、お母さんは出来るだけ自分の落胆や不満を顔に表わさないようにしました。桜ちゃんは自分がかじったリンゴの1つをお母さんに渡しながら「はい、お母さん。このリンゴの方が美味しいですよ」と言いました。お母さんは、娘の優しい心遣いを理解し、喜びの涙を流したのです。

  私たちはともすれば目で見たことを基にして判断してしまいがちです。度々その判断は正しくないことが分かります。私たちが目で見ることには、事実ではない可能性があるのです。ちょうどこの話に出てきたお母さんのように。ですから、見た目だけで即決することは判断を誤る可能性があります。イエスが忠告したように、私たちは人の目にあるおが屑を取るために、まず自分の目にある丸太を取り除くべきです(参照:マタイ7,3-5)。


ごみの(かご)

  インドのある金持ちは理由もなく貧しい人を軽んじて、彼らをいじめることが大好きでした。「習慣は第二の天性たり」のことわざのように、この金持ちは役に立たない物を貧しい人々に与えることが常でした。たとえば、事故でぼろぼろになりスクラップにされた高級車の鍵を与えたり、底が抜けた古すぎる鍋を施し物として与えたり、水を入れることができないほど大きく割れたお椀を与えたりしました。

  ある日、この金持ちはごみでいっぱいになった籠を非常に貧しい人に与えました。貧しい人は金持ちを見つめて、「ありがとう」と微笑んで言いました。その籠を持って近くの川へ行きました。そして彼はこの籠の中身をごみ捨て場に捨ててから、川の水でこの籠をきれいに洗いました。洗ってきれいになった籠に、貧しい人はたくさんの美しい花をいっぱい入れました。彼は急いで戻り、金持ちの家の中に入り、金持ちに籠を返しました。金持ちは驚いて、「私はあなたに、ごみだらけの籠を与えたのに、どうしてあなたは私に花で満たされたきれいな籠を返すのですか」と尋ねました。すると貧しい人は「それは、みんな自分の心の中にあるものしか人に与えないからです」と答えました。その日からこの金持ちは、貧しい人たちをいじめるのをやめたそうです。

 人をいじめることは楽しいかも知れません。しかし、いじめられた人は深い傷を受けています。私たちの言葉や行いが、人を軽んじたり、恥を与えたりすることのないようにしましょう。人にしてもらいたくないと思うことは何でも、私たちも人にしないようにしましょう(参照:マタイ7,12)。聖パウロが教えているように「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちましょう」(参照:ローマ12,21)。自分たちの心から、良いもの・役に立つもの・値打ちのあるものを選んで賢明に人に与えましょう。


狡賢(ずるがしこ))(さぎ)

  あるところに1羽の鷺がいました。小さな湖のそばで暮らしていた鷺は、歳を重ねるうちに食べたい魚を取ることが難しくなってきました。何日も餌にありつけず飢え死にすることがないよう色々と考えているうちに、鷺に良い考えが閃きました。この湖に友だちの賢い蟹が住んでいました。鷺は絶望的な顔をしながら、友だちの蟹に次のように言いました。「困ったなぁ。困ったなぁ。何か恐ろしいことが近いうちに起こるそうですよ」「えっ、なに、なに。それはなに?!」と心配して蟹は尋ねました。「今朝、散歩をしている時に人間の話を耳にしました。彼らの話によると、雨が降らないので今年のうちにこの湖の水が無くなって干上がるらしいですよ。もしかすると完全に干上がるには、数年かかるかも知れませんが…。とにかく、この湖が干上がれば、ここに住むすべての生き物が死ぬに違いありません」と心配そうに鷺は蟹に話しました。

  この話を聞いた蟹は、湖の魚たちに今聞いた話を聞かせました。当然、魚たちは大きなパニック状態に陥りました。「死にたくない、助けてくれ、どうしたらよいでしょうか」と魚たちは叫びました。「この湖から随分離れたところに、もっと大きな湖があります。もし、皆がよければ、年寄りから順番に若者まで一人ずつその大きな湖へ僕が君たちを運んであげるよ。そうすれば君たちは長く生きることができるよ」と、狡賢い鷺は大きな湖へ移ることを魚たちに勧めました。皆で相談した上で、魚たちは鷺の提案に賛成しました。

  そして毎日、朝・昼・晩と鷺は、一匹の魚を口ばしの中に入れて大きな湖に飛んで行きました。しかし彼は新しい湖に魚を運ぶのではなく、口ばしの中の魚を空中から大きな岩にわざと落として殺しました。そしてゆっくり降りて行き、その魚を美味しく食べたのです。食べた食事を消化するために少し昼寝をしてから、鷺は湖に戻って次の食事の準備をしました。「先に運んだ魚たちはとても幸せにしています。あの湖は深く、水もとても綺麗です。先に行った魚たちは、あなた方が来るのを待ち望んでいますよ」と鷺は言いました。それを聞いて、疑うことを知らない魚たちは鷺をすっかり信頼してしまいました。自分たちを救うために働いてくれる鷺に感謝の言葉を言いながら、安心して移動するために鷺の口ばしの中に、毎日毎日、自分たちから入りました。

 一年後、あの賢い蟹は大きな湖から戻ってきた鷺に尋ねました。「殆どの魚たちが移動しましたので、そろそろ私の番だろうと思います。お願いします、私も大きな湖に運んでください」と願いました。狡賢い鷺は「今まで、魚ばかり食べていた。蟹の肉はとても上手いと聞いている。そうだ、今日私はメニューを変えよう」と考えました。そして狡賢い鷺は、今日は賢い蟹を運ぶことに決めました。しかしこの賢い蟹はとても重くて体が大きかったので、口ばしで運ぶのは無理でした。そこで蟹は自分で鷺の背中に乗りました。鷺は蟹を背中に乗せた状態で空を飛んで行きました。暫く行くと蟹は「大きな湖までの旅は長いですか」と聞きました。すると狡賢い鷺は「いいえ、長くないですよ。私は湖まであなたを運びませんから。あの魚たちにしたのと同じように、あなたをあの大きな岩に落として殺すつもりです。それからあなたを食べますから」と笑いながら答えたのです。すると蟹は背中から「そういうことは、あり得ません」そう言うと自分の大きくて強いハサミで鷺の首を絞めました。無理やりもとの湖に戻らせ、地上に降りてからハサミで鷺を殺しました。

 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」(マタイ7,15)、「惑わされないように気をつけなさい。また、彼らについてはならない」(参照:ルカ21,8)と主イエスは忠告しました。現代社会における一つの悲劇は、人々の約束はすべて実現されず、彼らの行いは約束の逆を行うということです。というのは、政治家のスピーチの公約・メディアの賢い説明・商売の宣伝の誘い・今年の占いなどすべて怪しいものですが、容易に私たちはこれらを信じてしまう危険性があります。私たちを騙している人々を殺す必要はありませんが、せめて彼らの狡賢い危ない誘いを未然に潰すようにしましょう。


旅路の障害物

  ある国の賢い王は、自分が治める民に正しい生き方や適切な行動の取り方を教えるために、様々な具体的な工夫をしました。たとえば、町を綺麗にするために、道に捨てられているごみや動物の糞などを拾う人々に対して王は数枚の金貨を与え、年寄りや体の不自由な人の世話をした人々に対して自分の食事を分かち合い、良い業を行う人に対して何にでも使える報酬を与える習慣がありました。民はこの王が、大好きでしたが、時々彼のやり方で非常に人々を驚かせることがありました。ある日、王は町の中央にある井戸に子ロバを入れました。なぜなら、水を汲みに来る人が、どのようにしてそのロバを救うのかを知りたかったからです。またある時には、巡礼者や貧しい人の真似をして物乞いをしたこともあります。王は、このように人々が驚くことを通して、自分の民を試すことが好きでした。

  そんなある日、王は宮殿に通じる道の真ん中に平べったい大きな岩を置くように命令しました。その岩があまりに大きいので、道の中央で大きな場所を取り、道の幅がとても狭くなり、人が通るのを妨げていました。そして王は近くに隠れて、宮殿に荷物を運ぶためにこの道を通る人の反応を見張っていました。最初に来た人は商売の人で宮殿にたくさんの布と生地を運んでいました。平べったい大きな岩を見て、彼は「誰がこんな岩をここに置いたのかは分からないが、王様は自分の道のメンテナンスにもっと気を配る必要があります」と言って、岩の上に自分のたくさんの荷物を置いて、自分は岩の横の狭いスペースを通ってから、今度は岩の上に置いたたくさんの自分の荷物を取り戻して、宮殿の方へ行ってしまいました。

 次の人は、荷物は運んでいませんでしたが、彼も文句を言いながら岩の上に登って、目指している宮殿の方へ行きました。特に、馬車でたくさんの荷物を宮殿に運んで来た人々は、荷物が多いのと馬が道を通れないので何度も往復して自分たちの荷物を手で運ぶ必要があったので、他の人たちよりも怒っていました。この日はたくさんの人たちがこの道を通りましたが、誰も岩を動かすことを考えませんでした。むしろ宮殿へ行く人も宮殿から出て来る人も、王様の悪口や彼の悪戯についてブツブツと不平を言って、岩の上に登ったり、岩の横の狭いスペースを通りながら、王様への不満を爆発させて去って行きました。

 次の日、王はまた昨日の場所に隠れていると、宮殿に野菜を運んで来た田舎の人を見えました。その人は岩をよく見てから自分の荷物を道に降ろして、その後で岩を動かそうとし始めました。田舎の人が岩を動かし始めると不思議な事に少しの力だけで、その大きな岩を簡単に道の端に動かすことができました。というのは、この岩はカタツムリの殻のように、外面は大きく見えますが、実は中身は全くなかったからです。田舎の人は運んで来た野菜を元に戻すために、岩のあった所へ戻りました。すると道の真ん中に小さな穴があり、そこに王が置いた金貨の袋がありました。田舎の人がその袋を開けてみると、たくさんの金貨と共に王様のメッセージを見つけました。「ご苦労様でした。これはあなたへの報酬です。今度から出会う人々に邪魔になる障害物、あるいはどんな試練や思いがけない出来事も、自分自身を試す役に立つもので、障害物を乗り越えるためにはそれを避けてぶつからないように回避したり、その障害物をよじ登ることではなく、むしろ今あなたがした様にその障害物をしっかりと掴むことが肝心です。このやり方で自分を鍛錬することが出来ます、という事を皆に教えてください。よろしく。王より」

 私たちは試練や病気や思いがけない出来事にぶつかる時に、文句や苦情を言いがちです。そしてできるだけこの試練を避けるように努力します。しかし、それらの障害物は私たちに問題を乗り越える智恵を豊かに与えるので、非常に役に立つものです。試練を乗り越える体験をしようとしない人は、人生に対して不満を持ち、いらいらし、苦情や文句を言う習慣ができてしまいます。試練を耐え忍ぶことではなく、災いを我慢することでもなく、試練を乗り越えるように信仰が私たちを後押しします。信仰の力を受けた私たちは絶望するのではなく、希望のないところに希望をおくことを教えています(参照:ローマ4,18)。ですから、聖パウロが勧めているように、出会う試練を上手に利用しながら「神の前に立つにふさわしい、鍛錬者、恥じることのない者になるように」(参照:2テモテ2,15)努めましょう。


神は本当におられるのか?

 信仰に熱心な人が、自分の髪の毛を切るために小さな村にある唯一の床屋に行きました。この床屋は話をする事が大好きで、いつも、当たり障りのないことや村の日々の出来事について話してから、信仰に熱心な人を困らせるために、わざと神の存在の問題を出す習慣がありました。

  床屋は急に「私は神を信じません」と論じ始めました。「どうしてですか…」と信仰に熱心な人は尋ねました。床屋は「答えは簡単です。外に出れば、直ぐ分かるでしょう。店の前の家には、体の不自由な幼い子がいます。その隣の家には、主人が家族を捨てて出て行き、残された5人の子供を育てる母は、苦労の連続の生活を送っています。教会の直ぐ傍にあるあの酒屋には、失業者が寄って来てその内の何人かは、自分の不幸を忘れるために一日中お酒に酔っらっています。昨日は、一人のお婆さんが道を渡ろうとして車に跳ね飛ばされて、意識不明状態になりました。もし神がおられるなら、こんな悲しいことや恐ろしい事故、あるいは戦争や疫病、災いや死など決してある筈がないでしょう。神が存在しないので、この世には不幸が現れ続けています」と自慢げに説明しました。この議論を聞いた信仰に熱心な人は、ニコニコしながら、何も答えずに床屋が仕事を終わるまで待ちました。

  髪の毛を切ってもらったので代金を支払う時に、信仰に熱心な人が言いました。「私は、床屋の存在を決して信じません」と。すると床屋は「なにを言っているのか、馬鹿を言うな、私はここにいるではないですか」と言い返しました。それを聞いて、信仰に熱心な人は「外に出れば、直ぐ分かるでしょう。なぜなら、私がここに来る時に、村を歩いている人を見ました。彼の髪の毛はボウボウで長く、髭もとても汚かったです。もし、床屋が存在しているなら、こんな哀れな人と出会うことはないでしょう」と信仰に熱心な人は説明しました。「私はこの村で床屋の仕事をしています。彼が私の店に来るなら、私の存在を分かるでしょう。そのように髪の毛が長く、髭の汚い人がいる理由は、彼らが私の所に来ないからです」と床屋は言いました。「その通りです」と信仰に熱心な人が答えました。「大抵の人は、あなたも含めて、神の家に足を踏み入れないので、つまり教会に行かないので、神の存在が分かりません。それどころか神の存在を強く否定しています。この世の大勢の人は神を無視したり、或いは探し求めないので、この世界で苦しみをもたらす災いと思いがけない出来事が増えています」と、信仰に熱心な人は言いながら床屋の店から出て行きました。

  神の存在を否定することは簡単です。しかし、神を探し求めることは至難の業です。なぜなら、神はいつも日常の生活の出来事の中に隠れているからです。神の存在を見分けるために、神への信頼と神を探し続ける根気が必要です。また既に神を見付けた人の証しによって自分の希望を養うことも必要です。「神を探し求める人には、良いものの欠けることがありません」(詩篇34,11 「私を捜し求めるなら見出す」(エレミヤ29,13)と、神ご自身が私たちを励まします。ですから、「今日こそ、神の声を聞くなら、心を閉じてはなりません」(詩篇95,7)


人生の列車

  この世に生まれる人は「誕生駅」という出発地点から列車に乗り、目的地の「永久駅」を目指して、不思議な旅を始めます。この列車の中で、先ずその人は自分の両親や親戚の人々を発見し出会います。人は他の人から冒険の話を聞きながら、旅で出会う有名な駅の名前を教えられます。それは「幼児駅」「青少年駅」「青春駅」「成人駅」「老年駅」、そして臨終のトンネルを通りぬけると目的地の「永久駅」です。

  人はずっと自分の両親の傍で人生の旅を続けると思っていますが、思いがけないある時に両親は違う駅で降りて行かなければなりません。同じ列車に乗っていた親戚の人々も、友人も列車で出会った人も次々とそれぞれの駅で降りて行くことを防ぐことは無理です。

  時の経つのはなんと早いことでしょう。人々が駅で降りる時、いつも新しい見知らぬ旅人が列車に乗ります。この新しい旅人たちのある人は友になり、ある人は敵になり、また他の人は無関心で全く関係のない人になります。不思議なことに、大勢の人は旅の目的地を目指しますが、急に思わぬ時に「災い駅」、あるいは「事故駅」「病気駅」という場所で新しい列車に乗り換えなければならない時もあります。ある旅人は、絶望のあまり列車が走っている時に、列車のドアをこじ開けて線路に飛び込むこともあります。イライラして苛立つ旅人がいれば、ある旅人は、とても静かで目立たないので、彼らが列車から降りたことに誰も気が付かないこともあります。更に、ある人は旅の途中で、神の恵みの「永久駅」に無事に辿り着くために、「改心駅」または「赦し駅」「和解と仲直り駅」に立ち寄り、どうしてもそこで降りたいと望んでいます。この旅人たちの決定はいつも人々を驚かせ、また同時に同じ決定をした人々に対して神に感謝するように誘います。

 人生の列車の中は、いつも空席があるので、人々が次々に乗って来ても中々満席になりません。人生の列車の中の雰囲気は、喜び、涙、苦痛の叫び、怒り、笑い声、ため息、期待、希望や絶望などで溢れています。列車でよく聞言葉は次のようです。「おはよう」「おめでとう」「さよなら」「また出会おうね」「ありがとう」「頑張ってください」「祈ります」などです。しかし、全ての旅人に対して解決できない大きな問題があります。いくら「永久駅」を目的にしていても、途中である旅人は望まない駅に降りなければならない必要があるからです。

 人生の列車は、確かに冒険の旅に私たちを案内します。新しい人々と出会って、新しい住む場所を発見しながら、新しい生き方の駅に乗り換え、あるいは何回も降りた「試練の駅」「思いがけない出来事の駅」にもう一度辿り着くことで、私たちは豊かな人となるに違いありません。いつか臨終のトンネルを通りぬけて「永久駅」に到着する時、私たちは人生の列車に残っている旅人から離れなければなりません。その時、きっと自分自身も彼らも寂しくなるでしょう。しかし、彼らに荷物と遺産として、自分についての記憶、語った言葉、様々な思い出、写った写真、などを残して、軽くなった彼らは永遠の幸せに向かって走るでしょう。なぜなら「永久駅」のホームで、彼らに先立って行った人生の列車の先輩たちが、喜びのうちに迎えるために待っているからです。

 キリスト者にとって、人生は「巡礼の旅路」です。洗礼という「天国のビザ」を受けた私たちは、「信仰の列車」に乗って、感謝と賛美のうちに大勢の人を旅の友にしながら、「永久駅」に向かって行きましょう。どうか皆が無事に永遠の幸せに辿り着きますように。



神様の訪れ

  インドの信心深いブラーマンは、朝、昼、晩と毎日、隣の神殿へ行って神に供え物を捧げてから、暫く祈りの時間をとる習慣がありました。ある日、彼は熱心に神に「神様、何年も前から私は忠実に、聖なるガンジス川の水で体を清めてから、一日に三回ここに来て、あなたを訪れています。そして来るたびに、私はあなたに供え物を捧げます。ですからお願いです、せめて私の家を訪れてくださいませんか。一度いいですから」と神に願いました。神はブラーマンの祈りに耳を傾け「はい、では必ず、明日あなたの家を訪ねます」と答えました。幸せな気持ちになったブラーマンは、家に早く戻り、自分の家の大掃除をし、壁に宗教的な飾りをかけ、門のところにマンゴーの木の葉っぱのガーランドを飾りました。そして神へご馳走としてテーブルの上に様々な果物や山盛りの甘いケーキを準備し、香りの良い花を活けました。確かに、神を歓迎するために、このブラーマンの用意は完璧でした。

  神が来られる日、朝早く起きた信心深いブラーマンは、自分の家の門の前に立っていました。朝の祈りの時間に6~7歳の一人の少年が通り過ぎながら、ブラーマンの家の窓から匂って来る美味しそうな山盛りの甘いケーキを見て「ぼくは、昨日から何も食べていません、ケーキを一つ食べさせてください」と手を出しながら願いました。ブラーマンは「さぁ、さぁ、あっちへ行って。邪魔するな。あれは神のもので、君のためではない」と叫びました。少年が動こうとしなかったので、ブラーマンは怒って箒でこの少年を追い出しました。すると、ちょうどその時、朝の祈りの終わりを告げる神殿の鐘が鳴りました。「神は忙しいので、きっと昼の祈りの時に来られるでしょう」とブラーマンは考えました。朝からずっと立っていたので、足が棒のように疲れ果て、彼は家の前にあるベンチに座りました。

  昼の祈りの時に、汚い服を着た物乞いの人がブラーマンの家に近寄りました。「どうか、神の名によって、私をあわれんで、何か施し物をください」と願いました。ブラーマンは自分の箒を掴んで、それをぐるぐる回しながら 直ぐその物乞いの人を追い出しました。そして彼が立っていた所が汚れてしまったので、大量の水で洗い流しました。すると、ちょうど昼の祈りが終わりを告げる神殿の鐘が鳴りました。そして「きっと、昼間は暑いから、夜涼しくなってから、神は来られるでしょう」とブラーマンは考えました。

  やがて夜が来ました。神の来られるのを待ち望んでいるブラーマンは、段々寂しくなってきました。隣の神殿の鐘が晩の祈りの時を告げた時、一日中歩いて疲れ果てたある巡礼者がブラーマンの家の前にある木のベンチに座り、「少し休憩させてください。もし可能であれば、このベンチの上で夜を過ごして寝ることを許してくださいませんか」と頼みました。それを聞いたブラーマンは「とんでもないことです。このベンチはもう直ぐ来られる神のための物です。さあ、立ってあちらへ行って。邪魔するな」と言って、自分の箒で巡礼者を脅しながら彼を追い出しました。それから何時間も暗い夜の間中、ブラーマンは神の訪れを期待して待っていましたが、神は来られませんでした。

  次の朝、いつもの通り、ブラーマンは体を清めて、供え物を持って朝の祈りのために神殿に行きました。神の像の前にひれ伏した彼は、熱い涙を流しながら「神様、約束なさったのにどうして私の家を訪れてくださらなかったのですか」とわめきました。すると神は「私は三回行きましたよ。しかし、あなたは箒で私を三回とも追い出しましたよ」と彼に答えました。

 「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25,40)とイエスは教えました。神のために何でもしてあげると思っている私たちは、日常生活で出会う人に対して、神に対すると同じ気持ちと決意を持っていないことは明らかです。祈り、節制、断食、施しをするのは簡単ですが、思いがけない時に、急に訪れる人を大切にすることは至難の業です。この物語はそれを思い起こさせます。ですから、日々の生活の中で人を通して私たちのもとを訪れる神に気付いて、決して追い出すことのないようによく気をつけましょう。


 鈴虫の声

  アパッチ族のインディアンはニューヨークの友だちと共に町を見物していました。彼らがマンハッタンのタイムズ・スクエアに着いた時、ちょうどお昼でした。大勢の人が食事のために外に出て、大きな声で話している人やタクシーのクラクションのけたたましい音、車のタイヤがきしむ音、救急車と消防車の現場へ急ぐサイレンの音などで、あまりにも騒がしいので人々の耳を聞こえなくしていました。その時、インディアンが友だちの歩みを止めて「私には、鈴虫の鳴き声が聞こえます」と言いました。「耳が聞こえないような喧しさの中で、鳴いている鈴虫の声を聞くのは到底無理です。あなたの耳は、おかしいのではないですか」とニューヨークの友だちは答えました。「いいえ、私にははっきり聞こえています」と言って、インディアンは暫くの間、聞き耳を立てていました。やがて、道を横切って、反対側に植えてある小さな木のそばに近寄りました。そして、木の枝をゆっくり見て「ほら、見て」と、指を指して自分の友だちに鳴いている一匹の鈴虫を見せました。

 「ええっ、信じられない。あなたはスーパーマンのような耳を持っているのですね」とニュ―ヨークの友だちは叫びました。「いいえ、私の耳はあなたの耳と同じです。ただ、問題は自分が何を聞きたいのかということだけです」とインディアンは答えました。「いくら私が望んでも私には無理ですよ。私はこんな騒がしい騒音の中で、鳴いている鈴虫の声を聞く事など絶対に出来ないでしょう」とニューヨークの友だちは強く言いました。「確かに、そうかも知れません。しかし、人は必ず、自分にとって大切な物事に敏感な耳を持っています。さあ、よく見て、それをあなたに直ぐに見せますから」。そう言いながらインディアンは、何枚かの小銭を道に投げました。すると、町の喧しい騒音にも拘らず、10メートル位離れていても多くの人々が振り向いて、今の音はなに…、小銭を落としたような音だったけど…どうなっているの…。その小銭は、もしかしたら自分の物ではないかと思い、確かめようとしました。「ほら、見たでしょう。私があなたに説明したことが、分かっていただけましたか。人は自分が聞きたいことや自分にとって大事な物事に対してしか、敏感な耳を持っていないのです。」とインディアンは言いました。

 「耳のある人は聞きなさい」(ルカ8,8)という願いは、聖書全体に響いています。ご自身が選んだイスラエルの民に、神は何世紀にもわたってこの願いを繰り返しました(参照:申命記9,1)。イエスも自分を囲んでいる群衆に、注意深く良く聞くように願っています(参照:マタイ15,10)出鱈目(でたらめ)、悪口、かな言動に耳を傾ける事はでも出来とても簡単です。しかし、真実と真理の言葉、命と知恵を与える言葉、救いと慰めを与える神の言葉に注意深く耳を傾けることは、至難の業です。なぜかこれらの神の言葉は一方の耳に入って直ぐに他方の耳から出て行ってしまいます。皆さんもご存じのように、ミサの時に聞いた福音の内容は、一時間後には忘れてしまいます。なぜなら、それはきっと私たちが、神の言葉に対する飢えや渇きを十分感じていないからです。また聖書の教えを何回も聞いているので新しい教えとして受けるのを諦めているのかも知れません。神の言葉への飢えと渇きを持つ人は、必ず、日常生活の様々騒音の中に神のささやきを聞き分ける人になります。とにかく、耳の聞こえない人とならないように、自分の耳に大切な物事や永遠に残る物事を迎え入れましょう。


先生の教え

  学校のある先生は、生徒たちの判断力を試すために、水の入った小さなカップを持って教室に入って来ました。そして次のように質問しました。「君たちは、この水の入った小さなカップの重さは何グラムだと思いますか?」「ええっと、多分100グラム」「いや、125グラム位だよ」と生徒たちは口々に答えました。「そうかぁ。でもこの小さなカップの重さを量らない限り、正確には分からないでしょう。確かにこの小さなカップはとても軽いです。では、もし私が腕を伸ばしたまま、この軽い小さなカップを数分間持っていたならどうなるでしょうか?さあ、考えてください」と先生が言うと、数人の生徒が「何にも起こらないよ」と答えました。

  「では、もし私がこれを1時間持ち続けるなら、どうでしょうか?」と先生はまた質問しました。「先生の腕は段々重くなり、そして苦しくなると思う」と、ある生徒が直ぐに答えました。「そうだね、その通りです。では、これを一日中持ち続けるなら…?」と先生はまた質問しました。生徒たちは暫く沈黙して考えた後、ある生徒が「分らないけど、きっと先生の腕は重くなり、段々と痛みを感じるでしょう。そして先生の腕の筋肉がこむら返りを起こすか、あるいは痙攣を起こし、もっと悪いことには先生の脳は麻痺状態に陥り、先生を直ぐ病院へ連れて行かなければならなくなるかも知れません」と答えました。それを聞いて、先生も生徒たちもゲラゲラと大笑いをしました。

  「君は正しい答えを出しました、ありがとう。でも、私が一日中この水の入った小さなカップを持ち続けたなら、その間にこの小さなカップの重さは変わるでしょうか?」と先生が改めて質問すると「変わらないです」と生徒たちは声を合わせて返答しました。「じゃあ、そうであれば、どうして私の腕の状態が段々悪くなるのかなぁ?」と先生が聞くと「それは腕の筋肉と神経が無理やりに長く使われて、ストレスを受けているからです」と数人の生徒が答えました。「はい、その通りです。では、私の腕の痛みを止めるためには何をすればよいでしょうか?」と先生は聞き返しました。「簡単です。そのカップをどこかに置いてください」と、冗談が好きな生徒は笑いながら答えました。

 そこで先生は真剣に生徒たちを見回しながら、次の説明をしました。「君たちに傷を与える問題は、この水の入った小さなカップによく似ています。と言うのは、いじめや侮辱や失敗、批判などの君たちを苦しめる問題を頭の中で数分間、或いは1時間位思い起こしても、そんなに大きなストレスを生み出さないでしょう。しかし、もし一日中、何週間、或いは何年間も続けてこの問題を思い起こすなら、小さい問題であっても段々と重くなります。そして君たちの人生は苦しくなり、君たちの考えが麻痺状態に陥って、もはや落ち着いた状態では何もできなくなります。ですから、君たちの人生を苦しめる問題と戦うことは大切ですが、それが解決ができない時には直ぐにその問題を忘れてしまいなさい。さもないと君たちの人生は暗く重くなり、苦痛の消えない人生になります。もっと悪いことには、ずっとこの問題を思い巡らし続けると、君たちから安らぎと平安な眠りを奪ってしまい、君たちを沈んだ状態や絶望的な状態に陥らせ、あるいは復讐するように導くかも知れません」。

 「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(エフェソ4,26)と聖パウロは教えています。心の中に怒り、恨み、赦しの否定、或いは偏見を持ち続け、それについて悪い考えを思い巡らすなら、決して心の平和は訪れません。人生のストレスを追い払うためには、自分を苦しめる問題と戦ってもよいですが、問題を起こした人を早めに赦す方がよほど良いことです。「無慈悲、いきどおり、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、キリストによってあなたがたをしってくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4,31-32)と聖パウロは、先生として私たちに教え勧めます。人の過ちや不正な行い、不愉快な言葉、失礼な態度などの小さい問題は、背負いきれないものにならないうちに赦しましょう。赦しは幸せの安全な道ですから。


反映(鏡のように)

  ある年寄りの神父は、小さな観光の村の駅の前で、長椅子に座って駅から出てくる人々を観察しようと思いました。ロザリオの神秘を祈りながら、神父は間もなく来る電車を待っていました。暫くすると電車が到着して、数人の乗客が電車から降りて来ました。その中に大きな荷物を運んでいる青年が、神父を見て尋ねました。「こんにちは。私は初めてこの村に来ました。数泊滞在してから、他の観光地に行くつもりです。ところで、神父様はこの村の人々を他の誰よりもよくご存じすから教えてください。この村の人々は、どんな人たちですか。」すると神父は、この人を優しく見つめて「あなたが今離れて来た町の人々は、どんな人でしたか」と尋ね返しました。青年は「ああ、彼らはとんでもない人たちでした。高慢で、全く面白くなく、冷たくて、わがままな人たちでした。ですから、私はあの町から出てきました」。すると、年寄りの神父は「それなら、あなたはこの村で、あなたが出て来た町の人々と、全く同じの人々と出会うでしょう」と答えました。「ああ、そう…」と言って、青年はふくれっ面をして言いました。そして、彼は自分の大きな荷物を引きずりながら、村のホテルを探しに行ってしまいました。

  駅の近くで自分の車を洗っていた村の村長は、この二人の話をよく聞いていました。そして村長は、神父の言った言葉が非常に気になり、悩んだ末に神父に今の話について尋ねようとした途端、ちょうど一台の観光バスが神父の前で止まりました。バスから降りて来たお客の中の一人の派手な服を着た青年が、神父に近寄り次のように尋ねました。「こんにちは神父様、私は初めてこの村の観光に来ました。きっと神父様は、他の誰よりも良くご存じでしょうから教えてください。この村の人たちはどんな人でしょうか」。神父はこの人を優しく見つめて「あなたが出て来られた町の人々は、どんな人たちでしたか」と尋ね返しました。「そうですね、とてもいい人たちでした。彼らはお客さんを歓迎するのに優れていて、思いやりの溢れた人々でした。ですから、あの町から離れる時、とても寂しかったです。なぜなら直ぐに町の人々の中で友達を作ることができましたから、本当にあの町の人々は素晴らし人々でした」と、青年は神父に答えました。すると神父は「それなら、あなたはこの村でもあなたが出て来た町の人々と、全く同じ人々と出会って、友達になるでしょう」と答えました。「ああ、それはよかった」と言って、青年は微笑みながらバスの団体の乗客を追いかけるために走って行きました。

  先ほどからずっと自分の車を洗っていた村長は、この二人の話もしっかり聞いていました。そして、村長は神父に自分の意見と文句を言いたくて我慢できずに「神父様、どうして同じ質問に違った答えをするのでしょうか。人によって村の人々を悪い者にし、もう一方の人には村の人々を素晴らしい者だとするのはなぜですか。説明してください」と言いました。神父は村長に答えました。「人は誰であろうと、自分の心に特別な世界を持っています。どこから来ても、自分の過去の中で良いものを見つけようとしない人は、どこへ行ってもよい物事を見つけられないでしょう。たとえこの素晴らしい村の中でもです。反対に、前の町で直ぐに友だちを作ったあの青年は、この村の人との間でもきっと新しい友を直ぐに見つけるでしょう。人々の態度はいつも私たち自身を映した鏡ですから」と、神父は説明しました。

 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7,12、ルカ6,31)とイエスは言われました。偏見をもって人を批判することは、とても簡単です。心に抱いている不満と恐れのせいで、人を避ける理由を見つけること、人を悪く見ることも簡単です。しかし、心を開いて、遠慮なく思いやりの気持ちで自分のありのままを人に見せる人は、大勢の人たちの良さと寛大さを自然に引き出し、そしてまたそれで自分自身の心を豊かにします。私たちは気付かないうちに、私たちの歩き方や話し方や態度に、私たちの内面的な姿を人々に表わしています。それを見る人は自然にそれに反応します。私たちが住む世界は、良いか悪いかの答えが自分の心にあるので、直ぐ解ります。確かに、上記の物語の神父が教えたように「自分の周りの雰囲気や出会う人々や出来事は、必ず私たちの心にあるものを鏡のように映して見せているのです。


カラスの悩み

  深い森に住んでいるカラスは、とても幸せでした。しかしある時、彼は町の方へ飛んで行ってみようと決めました。町へ行く途中、飛びながら下を見ていると一本の川が目につきました。そこには、一羽の白鳥がのんびり泳いでいることに気がつきました。カラスは白鳥に近づいて、次のように尋ねました。「ぼくは、真っ黒なので皆から嫌われています。あなたは真っ白で、とても美しいので、きっと世界中の皆から愛されている一番幸せな鳥ではないでしょうか」と。

  白鳥はカラスに答えました。「つい先ほどまではそうでしたが、2時間前に動物園の上を飛んでいた時、私はカラフルな色をした美しいオウムを見ました。それに比べて、私は口ばしと足以外はすべて真っ白です。このオウムは私よりもきっと、もっと幸せな鳥だと思います」と。それを聞いたカラスは直ぐに動物園の方へ飛んで行きました。

  しかしオウムに話を聞くと、このオウムも一番幸せな鳥ではありませんでした。オウムの話によると、動物園の孔雀は毎日自分の周りにたくさんの人を集めているので、一番幸せな鳥だと説明しました。「この孔雀野郎が、ここに来るまでは、私はとても幸せでした。皆が私を見て喜んだり、話かけたりしていました。しかし今、皆はうぬぼれで、『俺を見ろ』とばかりの見栄っ張りの孔雀のそばに集まって、彼の広げる尾羽を見て、凄く喜んで拍手をするではありませんか。あの高慢な孔雀野郎こそ、世界中で一番幸せな鳥に違いありません」とオウムはカラスに訴えました。

 そこでカラスは、孔雀の所へ飛んでいきました。たくさんの人が孔雀を囲んでいたので、近寄ることができませんでした。動物園の門が閉められて皆が自分の家に帰った後、カラスはようやく孔雀と話すことができました。「お偉い孔雀様、あなたは美し過ぎるので、数え切れない大勢の人々があなたを見るために、毎日あなたの傍に集まって来ます。ところがぼくは真っ黒なので、人々がぼくを見るたびに石を投げて追い払おうとします。ですからあなたは、世界中で一番幸せな鳥だと、わたしは思います」と、カラスは言いました。

 「私もここに連れて来られた時には、そう思っていました。しかしこの動物園が、私の自由を奪いました。いくら人々が私の美しさに感動して褒め称えても、私は、もはや、この鉄の大きな鳥かごから出ることができません。私は、一番幸せな鳥ではなく一番哀れな、自由を失った不幸な孔雀でしかありません。ああ、もし私が一羽のカラスならなんという幸せでしょう。人々の好奇心をそそのかす目を避けて、あなたのように行きたい所へ行って、自由な生活を送るでしょうに…」と孔雀は嘆きました。

 私たちは自分を他の人々と比較して、自分の悩みや嫉妬、野望を到る所に運んでいます。それは自分を閉じ込める大きな鳥かごのようになっています。自分の幸せは他の人の内にあるのではなく、自分自身の内にあるのです。それを見つけることが最も大切なことです。神は私たちの幸福を望んでおられるので、私たちに命の賜物を与えた時、同時に幸せの小さな鍵を私たちの心に置いてくださいました。神が語る言葉に耳を傾けるならば、必ずその小さな鍵を簡単に見つけることができるでしょう。「それは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは私たちのごく近くにあり、私たちの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(参照申命記30,1114)と神は教えています。幸福が私たちの内にある理由は、私たちが人々を幸せにするためです。

  実際、幸せは熱気球のようです。悩み、嫉妬、欲望、高慢、怒りというバラストを捨てれば捨てるほど、この幸せは大きくなると同時に人の魂は、上へ上へと昇り、神にまで高められます。ですから神の前でも、人々の前でも謙遜に幸せな人となるように諦めずに努めましょう。

  *バラスト…船を安定させるために船底に積む砂・砂利・水・油などの重量物


ゆで卵のゲーム


 真夏のある日、小学校3年生の担任の先生がクラスの子供たちに一つのゲームをさせることにしました。先生は子供たちに、銘々ビニール袋に茹でて殻をむいた卵を入れて持って来るようにと言いました。「ビニール袋に入れるゆで卵の数は、君たちが嫌っている人と意地悪をする人の数を入れなさい。そして、その人たちの名前を紙に書いて一緒にビニール袋に入れてください」と先生は説明しました。

 さて、ゲームを始める日に子供たちは言われたように正直に嫌いな人と意地悪をする人の名前を書いた紙と人数分のゆで卵を持って来ました。ある子供は2個、中には3個あるいは5個持って来た子供もいました。先生は「今から皆はゆで卵の入ったビニール袋を自分のランドセルに入れて、1週間の間ずっとどこへ行く時にも持ち歩きなさい。絶対にランドセルから出してはいけません」と言いました。

  日が経つにつれて、腐ったゆで卵から悪臭が出るので、子供たちは文句を言い始めました。なんと5個のゆで卵を持って来た子供たちは、より一層悪臭の強い袋を持ち歩かなければなりません。強い悪臭を耐え忍ぶことができない子供たちは、先生との約束を破って1週間にならないのに、ビニール袋のゆで卵を捨ててしまいました。それを知った先生は、ゆで卵のゲームを早めに終わらせる決心をしました。「君たちは、まだ1週間にもならないのに、ゆで卵を持ち歩くことができませんでした。どうしてだと思いますか」と子供たちに尋ねました。子供たちは口々に不平を言い、悪臭のするゆで卵を、あちらこちらに持ち歩かなければならないことで体験した苦労について、文句や不満、恥ずかしさや強い悔しさ、不快感などの苦痛を訴え始めました。

 そこで先生はこのゲームに隠れている意味を皆に話しました。「君たちがこのゲームで悪臭のする卵を運んだことは、まさに君たちが誰かに対して心の中にいだいている憎しみや意地悪な態度と同じです。憎しみから出る悪臭が君たちの心を汚し、君たちはその心をあちらこちらに運んで行くことになります。たった1週間でさえ、腐ったゆで卵の臭いに我慢できないのに、これからずっと一生の間、君たちの心に悪臭を持ち続けるとしたら、どんなことになるでしょうか。よく考えてごらんなさい」。

 「敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6,27-28)とイエスは勧めました。一生涯、重荷を背負わないようにするために、人に対するどのような憎しみも、私たちの心から投げ捨てましょう。私たちの取るべき最良の態度は、他の人を赦すことです。なぜなら、他者を否定することは、心の平和を遠ざけることになるからです。他の人の良いところに心を留め、憎しみの心を捨て去りましょう。なぜなら、それは神のように憐れみ深い人となるためです。



(きこり)

 ドイツ人の力の強い樵は仕事を探していました。彼は「黒い森」というところで、ようやく雇い主を見つけました。仕事の契約条項は非常に良く、給与はとても高給でした。そのために樵は力を尽くして、出来るだけ精一杯よく働こうと決心しました。監督は彼に新しい斧を与え、彼の仕事場に連れて行きました。

  最初の日、樵は自分の仕事に夢中になって、与えられた新しい斧で、気がつくと十八本の松の木を切り倒していました。彼の仕事ぶりを見て、監督は彼を称賛しました。監督のお褒めの言葉を聞いて力づけられた樵は、明日はもっと働こうと決心しました。しかし、2日目はいくら頑張って木を切っても十五本の松の木しか切り倒すことができませんでした。気を取り直して、樵は次の日は前の日よりももっと努力しました。しかし、樵は3日目には、十本の松の木しか切り倒せませんでした。そして、次の日、また次の日と、日が重なるに連れて、彼の切り倒した松の木の数は段々少なくなっていきました。

  「私は力が弱くなったに違いない」と樵は考え始めました。そこで彼はお詫びしようと監督の所へ行き、「自分はどうしてこんなに力が弱くなったのか、全く分からない」と言いました。監督は、彼をじっと見つめてから「私があなたに渡した斧を最後に研いだのは、いつでしたか」と尋ねました。「そういえば、斧を研ぐ時間がありませんでした。なぜなら、私は松の木を切り倒すことでとても忙しかったからです」と樵は答えました。監督は樵に「さあ、今すぐあなたの斧を研いでください。そうすれば、あなたの体の力が戻ってくるでしょう」と勧めました。

  「あぁ、忙しい、忙しい」と私たちも言いがちです。時間がないという理由で私たちは自分の魂を研ぐことを忘れてしまいます。確かに、忙しければ忙しいほど、ますます幸せが遠く離れていくと人は感じます。体を健康に保つ必要があるように、自分の魂も大切に世話をする必要があります。なぜなら、わたしたちが魂に与える関心事のうちに幸せの鍵を見つけるからです。主キリストが教えたように「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の魂を失ったら、何の得があろうか」(参照:マルコ8,36

 一生懸命に働く事や疲れるほど仕事に夢中になることは罪ではありません。しかし、自分を霊的に養い、育てることはもっとも大切なことです。体はいつか滅びます。しかし、魂は永遠に残ります。人々と神に向かって生きる大切さを見失わないように、自分の永遠について考える習慣を身に着けましょう。神が人となられた神秘は、そのことを私たちに思い起こさせます。神は世の終わりまで、毎日私たちと共におられる(参照:マタイ28,20)ので、私たちも生きている限り、毎日、神と共に留まるようにしましょう。そうすれば、私たちの魂は、鋭い斧のように、そして力を発揮する両刃の剣のように(参照:ヘブライ4,12)、私たちの人生にあるすべての妨げを簡単に切り倒すことができるのです。


祈りの力

  あるレジャー用の船が急に襲ってきた強い嵐で遭難しました。子供の時から親しい友であった二人の男性は、必死に泳いで無人島に辿り着きました。神に祈る以外になにもできなかった彼らは、助けを得るためにどちらの祈りがより強く効果的であるかを知るために、無人島を二つの領土に分轄しました。お互いに自分の住む場所(領土)から離れないことを誓ってから、二人はまず食べ物を見つけることができますように神に祈り始めました。

  次の朝、自分の領土を散策していたAさんは、美味しい果物が沖からたくさん流れ着いているのを見つけました。その果物は1個食べるとお腹が満腹になりました。しかし無人島の反対側の領土に住んでいるBさんは、食べ物を何も見つけることが出来ず、お腹がペコペコにすいていました。しかし、そのことを知っていた彼の親友のAさんは、自分の領土にたくさん流れ着いた果物を、彼に分け与えませんでした。それでも何も文句を言わずに、Bさんは祈り続けました。

  暫くしてから、一人ぼっちになることを酷く嫌うAさんは、自分に従う可愛い犬を与えられるように神に祈りました。不思議なことに、次の日、新しい嵐で他の船が沈みました。その時一匹の可愛い犬が、無人島のAさんの領土まで泳ぎ着くことができました。そんな時、何も食べずに、疲れ果てているBさんは、それでも自分の領土で一人きりで、諦めずに祈り続けました。

  自分の祈りは聞き入れられると思ったAさんは、今度は自分の可愛い犬と幸せに暮らせるように、神に一軒の小さな家と新しい服とたくさんの食べ物を願いました。次の朝、目を覚ますと、昨夜祈って願ったものはすべて自分の前にありました。しかし、無人島の反対側に住んでいるBさんは、一人ぼっちで飢え死にしそうな状態で、服がボロボロになり、それでも島の岸の砂の上に横たわって祈り続けていました。それを見たAさんは、親友のBさんを可哀想だとも思わず、救いの手も出さず、一言も話もせず、全く無関心で何もしませんでした。それどころか、可愛い犬と自分は一日も早くこの島から離れられるように神に願いました。何時間もたたないうちに、あるクルージング船が無人島のAさんの領土に辿り着きました。

  早速、Aさんと可愛い犬はBさんのことなどすっかり忘れて、船に乗ろうとした丁度その時、天から声が聞こえました。「どうしてあなたの友をこの無人島に残すのですか」と。「彼の祈りが役に立たないからです。この島にいた時にご存じのように、彼は祈ってもあなたから何も受けませんでした。きっと彼は呪っているでしょう。私は願ったことを全部手に入れたので、祈りの結果は私だけのものです。Bさんと受けたものを分かち合う必要はありません」とAさんは答えました。すると「あなたは間違っています。あなたの親友のBさんは、ただ一つの願いを私に捧げました。その願いを私は豊かにずっと叶えたので、あなたは恵まれました」。それを聞いたAさんは「私こんなに祝福された者となるために、いったいBさんは何を願いましたか」と聞き返しました。「Bさんは自分の為には何も願いませんでした。むしろ、あなたの祈りがすべて叶えられるように、慈しみの心で彼はずっと私に願いました。この祈り方こそ、真の友情の証拠です。さあ、あなたの命を救った親友のBさんを早く呼んで、一緒にこのクルージング船で家に帰りなさい」と神は言いました。

  私たちは誰かが私たちのために祈っているということを忘れているので、受けた神の祝福と恵みは自分たちの苦労と祈りの結果だと思い込んでいます。世界中に居るカルメル会のシスターたちをはじめ、見知らぬ信仰の兄弟姉妹、また天使の群れと聖人たちは、絶えず神の前で聖母マリアとイエスと共に、私たちのために執り成し、恵みと祝福を願っています。ですから、私たちの祈りも、大勢の人を幸せな人とするように努めましょう。「聖徒の交わり」の神秘に私たちの信仰の根を深く下ろして、普遍的な祈りによって、地の果ての人々まで安全と喜びと平和と幸せを運びましょう。「どのような時にも、聖霊に助けられて祈り、願い求め、すべての人々のために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(参照:エフェソ6,18)。        


フォークのなぞ

  病気の最終局面にあったある婦人が、残された命は数日しかないと知っていましたので、病者の秘蹟を受けるために自分の主任司祭を呼びました。 塗油式を受けた直ぐ後、婦人は自分の葬儀について考えた様々なことを神父に説明し始めました。 つまり、葬儀ミサのに読むべき聖書の箇所、歌って欲しい聖歌、自分が着たい白い衣服、花の種類などについて、彼女は細かく説明しました。 そして最後に彼女は非常に不思議な願いを加えました。 「私を棺に入れる時に、このロザリオを私の首にかけてください。 そして、左の手には私の聖書、右の手には必ず一本のフォークを持たせてください。 これが私の遺言です」と。

 それを聞いた神父は非常に驚きました。 「どうして、あなたの手に一本のフォークを持たせる必要があるのですか」と神父は尋ねました。 「驚かれましたか。 私は教会のパーティー、結婚式の披露宴、学校の同窓会の集まりなど、色々な集まりに参加しました。 どの集まりでも食事が終わる時に、いつも誰かが次のように勧めました『あなたのフォークをしっかりと持ってください。 なぜなら、もっとも素晴らしいことや一番良いものが直ぐにくるからです。 それはチョコレートパフェなのか、クリームタルトなのか、バニラアイスクリームなのか、どんなデザートかは分かりません。 とにかく素晴らしいデザートが出てきますので、あなたのフォークをずっと握ってください』と。 ですから、神父様、私の葬儀で棺の中にフォークを持っている私を見て、きっと皆があなたに『このフォークは何ですか…』と質問するでしょう。 その時、次のように答えてください。 『あなた方も自分のフォークをしっかりと持ち続けてください。 最も素晴らしいことや一番良いものが直ぐくるからです』と」。

 神父は溢れる涙をぬぐいながら、彼女に最後の祝福を与えて教会に戻りました。 その二日後、彼女は主の下に召されました。 葬儀の日に主任司祭は彼女の遺言の通りに行いました。 白い服を着ている彼女の首にロザリオをかけ、左の手には聖書を持たせ、右の手には銀のフォークを持たせました。 棺の前で花を捧げた皆が、主任司祭に同じ質問をしましたので、霊柩車に彼女の遺体を運ぶ前に、司祭は彼女が生前に彼に頼んだ、なぜフォークを持っているのか、と言う話を打ち明けました。 「彼女は天の国で最も素晴らしいことや一番良いものが、自分を待っているという事実を良く知っていた人でした。 あなた方もこの大切なことをよく覚えてください。 この世の様々な人生の楽しいこと、悲しいこと、耐え難いことの後に、必ず最も素晴らしいことや一番良いものがあることを絶対に忘れないように」と、主任司祭は葬儀の参加者に勧めました。

 「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイ3,2)と聖パウロも私たちに勧めています。 私たちは地上のものの虜になりがちで、またそれで満足してしまいます。 ですから、最も素晴らしい霊的なもの、神がくださる一番良いものを捜し求めることを忘れてしまいます。 ですから忘れないように、ミサに与るたびに、自分のフォークを持つというのはどうでしょう。 この世を去る、より素晴らしい世界が私たちを待っていることを思い、その世界に入る準備を整えるように私たちも自分のポケット、あるいは自分のハンドバッグの中に一本のフォークを持つようにしたら良いのではないでしょうか。 なぜなら、神の国では素晴らしい宴会が私たちのために準備されているからです。 「さあ、いただきます」と言うために、用意のできた賢い人、信仰の内に目覚めている人となりましょう。


幸せの道

  イスラエルの小さな村に住んでいた15歳の子供は自分のお祖父さんに尋ねました。「幸せになるために何をしたらよいのですか。何か幸せになるための秘訣があるでしょうか。 だって、たくさんの人々が不満や不平を言っているので、幸せではないように見えますから…」と。孫の質問に難しい答えを与えずに、お祖父さんは彼の手をとって、一緒に外に出て行きました。そして家のロバの綱をほどいて、孫をそのロバの上に乗せ、お祖父さんは大きな荷物を背中に担いでロバの後ろに従って、村の道を歩き始めました。

  すると、それを見た村人の批判の声が聞こえてくるようになりました。「この孫は、自分のお祖父さんを全く尊敬していない。恥ずかしいことだ。彼はロバに乗って楽をして進み、お祖父さんの肩に重い荷物を負わせ、自分が乗っているロバの後に従わせている。何ということだ、恥を知れ!」と、叫んだ村人たちは、孫の無礼な振る舞いを強く咎めました。そこで、お祖父さんは孫に向かって「人々の批判をよく聞きましたか。さあ、家に帰りましょう」と言いました。

  次の日、二人はもう一度村の道を通りました。今度は、お祖父さんがロバに乗り、孫が大きな荷物を担いで、そのロバの後に従いました。それを見た村人たちは、苦情と文句を言い始めました。「見てみなさい。憐れみのないこのお祖父さんを。彼は厚かましくロバに乗って、若い孫が苦しんで重い荷物を運んでいます。どうしてその重い荷物をロバの背中に乗せないのでしょうか。なんて馬鹿なことでしょう」と、村人たちは批判しました。そこでお祖父さんは孫に向かって「人々の批判をよく聞きましたか。さあ、家に帰りましょう」と言いました。

  その次の日、また二人はもう一度村の道を通りました。今度はロバの背中に重い荷物に背負わせて、この二人もロバに乗り、村の道を行きました。それを見て、村人たちは直ぐ批判を言いだしました。「とんでもないことだ。なんてかわいそうなロバなのだ。 二人の重さに耐えるだけでも大変なのに、その上に大きな荷物まで背負わせて…、無茶なことだと分からないのですか。 恥を知れ、恥を。 もっと動物を大切にしたらどうだ」と、村人たちは叫びました。そこでお祖父さんは孫に向かって「人々の批判をよく聞きましたか。 さあ、家に帰りましょう」と言いました。

  そして、またその次の日、今度はロバを大きな荷馬車に乗せ、二人が重い荷物を背負い、無理にこの荷馬車を引きながら村の道を歩きました。それを見た村人たちは、あざ笑って次のように言いました。「今までこんな馬鹿げたことを見たことがない。 重い荷物の代わりに自分のロバを荷馬車に乗せている。この二人は変わり者だ。しっかりしてくれ。気が変になったのか…」と、村人たちは叫びました。そこでお祖父さんが孫に向かって「人々の批判をよく聞きましたか。さあ、家に帰りましょう」と言いました。

  家に辿り着いた途端、お祖父さんは孫に次のような説明をしました。 「先日、君は幸せについて私に尋ねましたね。幸せになる秘訣は何もありません。どんなことをしても、また何もしなくても、必ずそれを批判する人が現れます。ですから幸せになりたいなら、人々の言うことを気にせず、自分がよく考えた上で決めたことを実行しなさい。そして、批判を警戒しなさい。反対にたとえ人々が君を称賛して褒め称えても、君は今の君以上に素晴らしい人になる訳ではありません。また、人々が君を強く批判したとしても、君は今の君よりも、もっと悪い人になる訳ではありません。ですから、正しいと思うことを遠慮なく迷わずに行いなさい。 そして人々の言うことを気にせずに、幸せになりなさい」と、お祖父さんは孫に説明しました。

 「多くの人は言う。『誰がわたしたちに幸せを見せてくれるのか』」(参照:詩篇4,7)という質問が聖書全体に響いています。 神が約束した幸せであろうと、人間が求める幸せであろうと、幸せを手に入れることは難しいと思われます。 「人間にとっては幸せがない」(参照:コヘレト2,243,228,15」と、繰り返す人に対して、他の人はその終わりのない幸せを死後の世界の事実として約束します。 しかし、神は人間がこの世に生きているうちに、幸せに暮らすように、全ての良い恵みと祝福を与えてくださいます。「主は、かつてあなたたちを幸いにすることを喜ばれた」(申命記28,63)と、モーゼはイスラエルの民に何回も覚えさせ教えました。正しく生きることによって、人は必ず幸せになると神は預言者たちやイエスを通して教えています。幸せの戸口は狭いかも知れませんが、正直で正しく愛で満たされた生き方によって、人はこの戸口を過ぎ越すことが容易にできます。より望ましいことは、一人で行うのではなく、大勢の人を連れてこの幸せを手に入れるようにしましょう。


雪の小片

 仙台の山地に住んでいた、何にでも興味があり、好奇心旺盛なあるシジュウカラは、寒い冬の朝早く、自分のそばに飛んできた一羽のアカゲラにたずねました。「君は知っているかい。ただ一つの雪の小片の重さを…?」少し考えてからアカゲラは「それはとても軽いので、きっと、その重さはゼロに等しいでしょうね。しかし、どうしてそれを知りたいのですか」と答えました。

 そこでシジュウカラは次の説明を始めました。「ぼくは、何でも知りたいし、また謎を起こす物事について強い興味を持っています。というのは、先日、冷たい風を避けて、ぼくが大きな松の木の枝で少し休んでいた時、雪が降り始めました。この雪は、音を立てずにゆっくりと降っていました。ぼくはたっぷり時間があったので、隣の小さな枝に落ちてきた雪の小片を一つずつ数えようと考えました。ぼくが数えたところによると、確かこの枝に降ってきた雪の小片の数は751,972個でした。ぼくは長い間、雪の小片を数えたので、とても目が疲れました。でも、ぼくは良く覚えています。重さがゼロに等しい751,972個の雪の小片が隣の小さな枝に降った時、何と、その枝がポキッと折れました。」

 シジュウカラの話を聞いて、アカゲラは少し考えてから「ぼくは、はっきりとは知らないけれど、きっとゼロに等しい雪の小片にも僅かの重みがあるのだと思います。その雪の小片のゼロに等しい僅かの重みも、たくさん集まるとかなりの重さになるんじゃないかなぁ…。だから、すべてをひっくり返すためには、ほんの少しのもので十分なのかも知れません」と言いました。「ぼくも、そう思っていたよ」とシジュウカラが同意しました。

 そこで、私たちも考えましょう。私たちの人生をひっくり返し、味わっていた平安を奪うためには、ある人のたった一言の言葉だけ、あるいはたった一つの不注意なふる舞いだけで十分なのではないでしょうか。 あるいはまた、ほんの少し状況が変わったとか、思いがけないつまらない出来事が起こることで十分なのではないでしょうか。そう考えれば、逆もまた真なりで、自分たちの周りにいる人々が幸せを味わうように、たった一言の簡単な挨拶や優しい微笑だけで十分なのではないでしょうか。同様に、すべてが上手くいくようにするためには、ほんの少しの協力が大いに役に立つということを誰でも気がつくでしょう。

 自分の仕事に、自分の家庭に、あるいは自分の教会の共同体にもう少し熱心になれば、きっと何かが変わるでしょう。 世界と社会が必要とする物事を海とするならば、自分の小さな協力はまるで一滴の水に等しいかも知れませんが、その一滴(祈りや慰めの言葉や励ましの言葉、あるいは人のそばに謙って留まる事など)は、きっと、良い結果をもたらすでしょう。確かに、降ってくる雪の小片のように、繰り返される小さな愛の具体的なしるしや思いやりの行動は、この世を美しく変化させます。私たちキリスト者としての生き方も、私たちの信仰の証しも、雪の小片のように静かに自分の周りを真っ白に、そして、美しく、平和にしますように。そうすれば、主イエスは私たち一人ひとりに次のように語るでしょう。「忠実な良い僕だ。 よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。わたしと一緒に喜んでくれ」(参照:マタイ2521)と。私はそれを強く望んでいます。


ヤゴ(トンボの幼虫)の物語

  ご存じのようにヤゴは三年間、池の底で成長し、やがて水から出て陸に上がって羽化し立派なトンボになります。北九州の田舎のある古い池の底でヤゴたちが「成長して蓮の茎に登ったすべてのヤゴたちは、水面に出るとどうして誰もこの池の中に戻らないのか」について、激しく討論していました。しかし誰も納得のいく説明ができませんでした。そこで皆で話し合って、今度成長して外の世界に行くヤゴは、外の様子を皆に説明するために必ず池に戻るという約束を、皆が一致して決めました。

  ある日、一匹のヤゴが、成長して蓮の茎を登って、池の水面に出る時期になりました。 このヤゴは「待っててね。 僕は必ず戻って来ますので…」と、皆に約束しました。池の水面に出ると、このヤゴは外の様子と景色をよく見るために、蓮の葉っぱの上で少し休むことにしました。すると、このヤゴの体に思いがけない変化が始まりました。知らず知らずの内に、自分の丸々としていた醜い体は長くて細いとても美しい形になり、透明の洒落た四枚の綺麗な羽が生え、軽さと速さをその体に与えました。太陽の光線を浴びながら美しい姿に変化したトンボは、直ぐに自分の約束を果たそうとしました。

  しかし残念なことに、それは全くできませんでした。池の水面の上を跳ぶことができ、水面下にたくさんのヤゴを見つけることができても、このトンボは自分の新しい体では、池の水の中にもう一度入ることができませんでした。そのうえ「水の下にいるヤゴたちが、新たにされた自分の体を見ても、その姿は前の姿とまったく違うので、自分が彼らの仲間だということを誰も信じないだろう」とこのトンボは理解しました。そして自分の先輩たちがしたように、このトンボも新しい生き方を味わうために自由の世界へ飛んでいきました。

  ヤゴたちが自分たちの未来を知らなくても、私たちは自分の将来をよく知っています。 なぜなら、神である、人間になったイエスはたくさんのイメージを使いながら、それをよく説明して下さいましたから。また、罪と死に打ち勝った御自分の復活によって、イエスはそれを証ししました。実に、栄光の体を受けるために、私たちもいつかこの世から出なければなりません。神の愛の光線が私たちに与える復活の体を受けた人々は、この世に残っている家族や親戚や友だちを見ても、もはや彼らと話し合うことはできません。だからと言って、この世から出て亡くなった人を、私たちにはもう見えないので、彼らは存在しないと考えてはなりません。神は私たちのために、新しい天と新しい地を準備しておられます。それについては、黙示録が啓示しています。「わたしは新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き…最初のものは過ぎ去ったからである」(参照:黙示録21,1-4)と。

  ですから、今の自分の体について、悩んだり心配する必要がありません。 肥った体、痩せた体、若い体、年老いた体、不自由な体もこの世から出て、必ず栄光のある、神の愛の美しさをもつ体に変容するからです。「キリストは、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3,21)。


蛙たちの二百メートル競走

  毎年夏の終わり頃になるとある国の蛙たちは、二百メートル競走をする習慣がありました。 このレースの目的地は高い丘の頂上でした。 しかし、この伝統的な競争が始まった時から、蛙たちは一度も丘の頂上に辿り着くことができませんでした。 それにも拘らず、このレースは毎年行われ、優勝をするために様々の所からたくさんの蛙が集まって来ていました。 その中に優勝すると思う蛙を応援するファンの蛙たちがたくさんいました。

  いつものとおり蛙たちの二百メートル競走が始まると、ファンの蛙たちは小旗を振りながら大声でレースに参加する蛙たちを元気づけます。 「さあ、頑張って、頑張って、元気でピョンピョン跳んでね」と、レースが始まった時に叫んでいたファンたちは、レースの厳しさを感じ、だんだん「このレースは難しいけれど、諦めずに頑張って…」と言い始めました。 というのは、出発点では、蛙の数はおよそ百匹でした。 しかし初めの楽な丘を過ぎると坂は急に険しくなったので、五十メートルの坂を登ることができた蛙の数は四十匹しか居ませんでした。 勿論、ファンの蛙は険しい坂を登ることができなかったので、遠くからスピーカーを使って応援し続けました。 しかし、レースに参加して残っている蛙の苦労を見て、気の毒に思ってファンたちは「無理だ、無理だ」とか「無理をしなくてもいいよ、この坂は険し過ぎるから…」と叫び始めました。 レースに参加している蛙たちを落胆させ、がっかりさせるこれらの言葉を聞いて、何匹もの蛙が勇気を失ってレースを止めました。

  レースの出発の時点で、上手にピョンピョンと跳び上がっていた蛙たちは、一匹、また一匹と歩き始めました。 参加者たちを落胆させるファンの叫び声の影響を受けた多くの蛙は、とうとう途中でレースを諦めてしまいました。 そんな中で、ただ一匹の蛙だけが丘の頂上からまだ遠くにいましたが、黙々と目的地を目指していました。 「無理、無理、この丘は険しくて、高すぎるだろう」、「池の水から長く離れているので、皮膚が乾いて、君の命が危ないよ」、「丘の頂上に辿り着けなくてもいいよ」とファンの蛙たちが、ますます力を込めて叫んでいました。 しかし、この最後の一匹の蛙は、落胆と絶望的な叫びと、失敗することを望む叫びを無視して、険しい丘の坂をゆっくり、ゆっくり頂上を目指して一歩、一歩進み続けました。 それを見ていたファンたちの叫びが続きました。 「どうして諦めないの、無理に頑張って歩かなくてもいいよ。 ここまでよく頑張ったのだから、止めても恥ずかしくないよ」と皆が叫んでいました。 これらの叫びを無視して、ようやくこの一匹の蛙は高い丘の頂上に辿り着きました。

  審判者の蛙は、この蛙に優勝のトロフィーを渡しながら「どうしてこの二百メートル競走を完走できたのですか。 皆は途中で止めたのに…」と聞きましたが、この蛙は何も答えませんでした。 審判者は同じ質問を何回も繰り返しましたが、優勝した蛙は返事をしませんでした。 なぜなら、この蛙は耳が聞こえない蛙でしたから。

  消極的、悲観的な人の話、あるいは落胆させる言葉に耳を傾けるなら、誰であってもこのたとえ話の多くの蛙のように、自信を失い、抱いていた希望を諦めてしまいます。 テレビ、新聞、人の噂などを盲目的に、聞いたままに、何も判断せずに受けることは危険です。 自分の人生の目的を一生懸命に目指そうとする人は、人々の励ましや賞賛の言葉、いろんな勧めに耳を傾けるよりも、自分の心にある希望や躍動に従う方が有益です。 また失敗を望む言葉や消極的、あるいは絶望的な説明を聞くよりも、目的を失わずに、勇気をもって、自分の力を尽くす必要があります。 「何を聞いているか、またどう聞くべきかに注意しなさい」(参照:マルコ4,24とルカ8,18) とイエスは教えています。 この賢い勧めを心に留めましょう。 同時に聞いたことについて正しく判断する恵みを、真理の言葉を持っておられる神に願いましょう。


ねずみ捕り器

   小さな畜産農場に住んでいるあるネズミはこの農場の婦人が、自分が隠れている壁の割れ目のすぐそばに、一台のねずみ捕り器を置いてあることに気が付きました。 恐怖のあまり自分を失って、このネズミは動物たちが集まっている干し草を入れてある納屋の方へ走りました。 「大変だ、大変だ。 家にねずみ捕り器がある。 大変だ。」と叫び始めました。

   「君、きみ。 その知らに何の徳がありますか。 君が問題にしているねずみ捕り器は、私とは全く関係がない。 さあ、邪魔、邪魔、早くあっちへ行ってちょうだい。」と最初に出会った雄鶏(おんどり)が、偉そうに答えました。 それを聞いてネズミは、今度はある肥えた豚に「大変だ、大変だ。 家にねずみ捕り器がある。 大変だ。」と真剣に忠告しました。 「君には気の毒だが、けれどもこれに対して私は何もできません。 まあ、安心してください。 せめて君の無事と安全のために祈ることを約束します。」と同情的な態度を示しながら、肥えた豚は答えました。 諦めずにネズミは、今度は元気な牛にもねずみ捕り器の危険を知らせました。 「大変だ、大変だ。 家にねずみ捕り器がある。 大変だ。」と叫びました。 これについて、牛は何も答えずにネズミにただ背を向けただけでした。 この動物たちの理解も助けも受けることが出来なかったので、ネズミは寂しくなって、仕掛けられたねずみ捕り器を上手に避けながら、自分の隠れ場所に戻りました。

  その夜、あのねずみ捕り器が何かを捕えた音がしました。 朝早くまだ暗いうちに農場の婦人は、ねずみ捕り器を見に行きました。 電気がついていなかったので、暗闇の中で、農場の婦人は毒蛇のしっぽが、ねずみ捕り器に挟まれていることに気がつかずに、手でねずみ捕り器を掴みました。 すると、しっぽが挟まったままでねずみ捕り器と一緒に急に引っ張られてびっくりした毒蛇は、彼女に噛みつきました。 大怪我をした農場の婦人は、病院に行き、治療を受けて家に戻りました。 しかし高い熱がなかなか下がりませんでした。 見舞いに来た近所の婦人が、昔の言い伝えを信じて「雄鶏のスープを飲めば、熱が下がりますよ。」と言いました。 農場の婦人の夫は、それを聞いて偉そうな雄鶏を殺すために外へ出ました。 しかし近所の婦人たちの作ったスープを飲んでも、彼女の熱は下がりませんでした。

   次の日にもう一度見舞いに来た婦人たちは「雄鶏のスープで熱が下がらなかったのなら、きっと豚肉の鍋なら熱が下がるに違いありません。」と言いました。 自分の妻の元気な姿をもう一度見たかった夫は、今度は肥えた豚を殺しました。 しかし、残念なことに豚肉の鍋も彼女を救うことはできませんでした。 数日後、彼女は亡くなりました。 夫は、彼女のお通夜と葬儀に出席した大勢の人々に食事を振る舞うために、今度は元気な牛を殺すことになりました。 壁の割れ目からこれらの出来事の結末を見ていたネズミは「せっかく、ねずみ捕り器の危険を知らせたのに…。」と一人で考えました。

  「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10,12)と聖パウロは忠告します。 誰かがあなたに自分の問題を打ち明けるなら、それが自分と全く関係のないものだと考えないでください。 この物語が教えるように、誰か一人が危険を冒している、あるいは誰かの生命が危ぶまれていることを知るなら、それは実は、あなたと関係のある問題であることを忘れないでください。 無関心と知らん顔は、必ず他の思いがけない危険を引き寄せるからです。 もちろん、委ねられた問題の解決のために祈ることが必要です。 しかし具体的な支えや慰めや励まし、あるいは友情の行いがその祈りに伴わないなら、決してよい効果をもたらしません。 聖パウロに倣って私たちも「何とかして何人かでも救うために、すべての人に対してすべてのものになりましょう」(参照:1コリント9,22)。



ティーカップの試練

    私はティーカップになる前は粘土の塊でした。 ある日、有名な陶工が私を掴んで、強く私をたたきながら粘土の中の空気を抜いて、新しい姿を私に与えました。 勿論、その時、私は全身が凄く痛いでした、ですから彼が台に私をたたきつけるのを止めるように頼みました。 しかし陶工は笑いながら「まだ、まだ」と答えました。 暫くしてから、彼は私を轆轤(ろくろ)の上に乗せ、めまいを起こして気分が悪くなり、吐き気をもよおすくらい私を回転させました。 私は、どうして彼が私にこんなに酷いことをするのか全く理解できませんでした。 長い時間の轆轤の急速回転がやっと終わると、次に、陶工は火の中に私を入れました。 窯のガラスのはまった窓から彼の顔が見えたので、私は精一杯ここから私を出すように懇願しました。 しかし彼は頷くだけで、私に微笑みかけながら「まだ、まだ」とだけ答えました。

   そして、急に陶工は私を窯の外に出して、今度は私の表面のボコボコを直すために私を磨き始めました。 そして、ブラシをかけた後、彼は筆を使って私の体に色んな絵を描き、綺麗な色を塗り始めました。 しかし、毒性のある絵具のせいで、私は死ぬのではないかと思いました。 私は、気を失う前に必死の思いで「お願いです。 やめてください」と叫びました。 しかし、いつものように、陶工はニコニコしながら「まだ、まだ」と私に答えました。それを聞いて直ぐに、私は気を失いました。

  第二の窯の熱さで、私は意識を取り戻しました。 この窯は最初の窯よりも、もっと熱かったので、私は泣きながら陶工に私をここから出してくれるように頼みましたが、彼は相変わらず微笑みながら「まだ、まだ」と言うだけでした。 私は再び意識を失いました。 それはどれ位続いたのか分かりませんが、「今だ!」という陶工の声で私は気が付いて意識を取り戻しました。 陶工は丁寧に自分の手で私を取りあげて、飾り棚に置きました。 そして私の前に鏡を出しながら「さあ、君を見なさい」と微笑みながら言いました。 「えっ…!」私はびっくりしました。 なぜなら、私はとても美しいティーカップになってしまったからです。 耐え忍んだすべての試練が、私を変容させました。

  驚いている私を見て、陶工は次の説明をしました。 「よく理解して欲しい。 私は君をたたいたり、成形した時、君が苦しんでいることをよく知っていました。 私の回す轆轤で君は気分が悪くなり、吐き気がすることもよく知っていました。 しかし、もし私が君に何もしなかったら、君はただ乾燥してかさかさになった粘土の塊でしかありませんでした。 この試練のお陰で、君の個性が成長し発展しました。 勿論、窯の熱さは耐えがたく、忍び難い試みです。 しかし、それを君が避けたら、君はあっという間にボロボロになってしまっていたでしょう。 ブラシの助け、そして毒性のある絵具のお陰で君は魅力的な洒落たティーカップになりました。 今、君はとてもきらびやかです。 確かに、第二の窯は恐ろしい試練を君に与えました。 その結果、君は今、日常生活の思いがけない出来事を乗り越える可能性を持っています。 私の苦労で、弱かった君がとても忍耐強いものになりした。 君が知らない間に、私は君の弱さから揺るぎない力を引き出しました。 私は最初から君を見て、大切にしようと決めていました。 なぜなら、君はずっと私と共に留まるからです」と。

 この話のティーカップはあなた自身です。 そして、陶工は神です。 昔、預言者イザヤはこれに似たたとえ話を語りました。 「主よ、わたしたちは粘土であり、あなたは陶工である。 わたしたちは皆、あなたの御手の業です」(参照:イザヤ64,7)。 この世を作る前から神は私たちを愛し、選び、揺るぎない慈しみを注ぎながら、人生の様々な試練を通して、絶えず愛の完成まで導きます。 この人生が終わるとき、神は完全になった私たちを見て「それはよし」と言われるでしょう。 ご自身の姿にかたどって人間を創造された時、神がそれを言わなかったのは(参照:創世記1,27)、人間が完全になるためには、成長をしなければならないからです。 ですから、神が私たちに望まれることを私たちは実現しましょう。 人生の様々な試練を乗り越えて「神が完全であるように、私たちも完全な者になりましょう」(参照:マタイ5,48)。


先生と学生の討論

  神の存在を否定して、それを学生たちに納得させたい無神論者の先生は「神がすべてを造ったと考えるなら、彼は悪の責任者だと認めなければなりません。 なぜなら、造られたものはそれを造った人の個性を現すからです。 従って、神が存在するのであれば、その神は悪い神だということになります。」と、自慢げに断言しました。 するとすぐにある学生が尋ねました。 「先生、質問をしてもよろしいですか。 寒さは存在しますか?」 「勿論、寒さは存在します。 おかしなことを聞くね。 だって君は、冬になると暖かい服を着るでしょう…?」と先生が答えました。 「いいえ、先生、寒さは存在しません。 物理学の教えによると、私たちが『寒さ』と呼ぶものは、ただ暑さが欠如しているだけです。 すべての人と物はエネルギーを生み出し、それを伝えます。 それは『暑さ』と呼ばれています。 絶対零度(−273.15℃)(注1)は、完全な暑さの欠如を示します。 この温度では、すべての物質は反応を示さないからです。 ですから、『寒さ』は存在しません。 暑さの欠如を示すために、人間がこの言葉を作り出しただけです。」そう言って、学生は先生に続けて次の質問をしました。

  「先生、暗闇は存在しますか。」「はい、勿論、暗闇は存在します。 また変な質問をするね。」と先生が言いました。 「先生、残念ですが、暗闇は存在しません。 暗闇は光が欠如しているだけです。 私たちは、光を研究することができます。 たとえば、ニュートンはプリズムを使って光で様々な色の光線を作り、光の波長を測りました。 また、光の波動を研究することもできます。 ろうそくの小さな光でも簡単に暗闇を覆い、暗闇を照らすことができ、その光が満たす空間を測ることはできます。 しかし今まで暗闇が満たす空間を測ることや分析する人は誰もいませんでした。 暗闇を測ることはできないからです。 なぜなら、暗闇は光が欠如していることを示すために、人間がこの言葉を作りだしたのです。 ところで先生、悪は存在しますか?」

 自信を失った先生は、学生に次のように答えました。 「先ほど申し上げたように、悪は存在します。 どこへ行っても、すぐ見つけるのです。 自分の周りを考えただけでも、溢れる殺意、万引き、偽証、暴力の事実など、はっきりと悪を証ししています。」それに対して、学生は言いました。 「先生は、また間違えられましたね。 悪は存在しません。 悪とは簡単に言えば、神の不在の結果です。 寒さと暗闇について説明したように、神の不在を示すために人間が『悪』という言葉を作りました。 神は『悪』を創造しませんでした。 人は自分の心のうちに神の愛、神の愛の温かさ、神の言葉の光、神への信仰の力を抱いていないときに、人は始めて悪を感じるのです。 ちょうど、暑さがないときに人は寒さを感じ、また光がないときに暗闇がすべてを包むように。 神を信じない人は、必ず悪を信じるようになります。」この結論を聞いて無心論者の先生は「あなたの名前を教えてください。」と願いました。 すると、その学生は「私は、アルベルト・アインシュタインです。」と答えました。

 四旬節の間に神についての私たちの間違った考えを正すように努力したいと思います。 聖書の言葉を味わうことにより、ミサ祭儀に真心から参加することにより、疑いの暗闇を追い払い、信仰の光を受け、暖かい心で神の現存を深く味わいましょう。 いつくしみの特別聖年の恵みが皆様に神との揺るぎない交わりを豊かに実現しますように。

(注1)絶対零度:温度を低下させていくと、理論上、分子や原子の運動が完全に停止する状態ができます。 その温度を絶対零度といいます。摂氏マイナス273.15℃、華氏マイナス459.67oF


チョコレート・パフェ

   レストランのテーブルの椅子に座り注文した料理がでてきた時、マルコという六歳の男の子が食前の祈りを唱える許可をお母さんに願いました。 お母さんがお祈りをするように言ったので、マルコは頭を垂れて、大きな声で次のように祈りました「偉大な神様、あなたはとても優しい方です。 ですからこの食事のために感謝します。 そして、お母さんがデザートの時にチョコレート・パフェを注文すれば、僕はあなたにもっともっと感謝します。 皆さんに平和と自由があるように。 アーメン」。 この祈りを聞いていたレストランの客たちは、皆笑いました。 しかし、ある一人の婦人が「この頃、子供たちに正しい祈り方を教えていません。 神様にチョコレート・パフェを願うのは間違っています。 バカらしいです。 」と大声で言いました。

  それを聞いて、マルコは声を詰まらせて泣きはじめました。 「あなたのお祈りは、とても素晴らしかったわ。 神様はきっと叶えてくださるでしょう。 」と、母親が彼を慰めようとしていた時、年寄の男性が近づいて来て「本当にとても素晴らしい祈りでした」と、小さな声でマルコの耳に打ち明けました。 「ほんとに?…」と尋ね返したマルコに「はい、本当です。 私に賭けて誓います。 」と老人は約束しました。 そして先ほどの婦人を示しながら「あの人は、一度も神様にチョコレート・パフェを願わなかったのでしょう。 非常に残念ですね。 なぜなら、時々食べるほんの少しのチョコレート・パフェは、人の心を優しくし魂を健全にするからです。 」と老人は加えて言い、自分の席に戻りました。

  もちろん、食事の終わりにマルコのお母さんはチョコレート・パフェを注文しました。 注文が届いた時、マルコは自分の前に置かれていた大きなチョコレート・パフェを見て考え始めました。 そして何も言わずに立ち上がり、自分のチョコレート・パフェを取って、文句を言いたあの婦人のところに持って行き、婦人の席の前に置きました。 マルコは素敵な微笑みをしながら言いました。 「これはあなたのための神様のプレゼントです。 『チョコレート・パフェは、人の心を優しくし魂を健全にする』と言われています。 僕はこの美味しいチョコレート・パフェは要りません。 僕の心はとても優しく、魂は既に健全ですから…。 」と、マルコは婦人に言いました。 レストランの客たちは、マルコの的確で立派な振る舞いを見、立ち上がってマルコに拍手を贈りました。

  「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 」(マタイ18,3)と、イエスは私たちに教えました。 神の望まれる祈りは、丁寧で文法的に正しく美しいよくできた祈りではありません。 神の望まれる祈りは、自由な心から湧き出る単純な祈りです。 大人の私たちは、神に対する子供のような態度を失っているので、神に迷惑を与えない願いと祈りを捧げがちです。 神と親しく接する事、たとえそれが取るに足りないような詰まらない事であっても、神の手にすべてを委ねる事、自分の優しい父として神と話す事は、何よりも大切です。

  いつくしみの特別聖年の間、子供のように、自由自在に、また自発的に祈ることや神と共に親しい関係を結ぶように聖霊の助けとマリアの取り次ぎを願いましょう。 そして、信仰の喜びを抱いて、私たちは、神の心を神をまだ知らない人に、心から溢れ出る神の慈しみと愛を分け与えましょう。 今年もまた、皆さんの内に神と神のみ言葉への飢えと渇きがますます増えますように。 神を知り、愛し、敬い、すべての人に伝えることが私たちの心配りでありますように。 チョコレート・パフェよりも、神のいつくしみと愛は永遠です。 それは人の心を優しくし、魂を健全にするからです。


兎君と猿君の癖

  兎君にも猿君にも、それぞれ一つの癖がありました。 臆病な兎君は危険が来るか来ないかと恐れて、確かめるためにいつも頭をあちらこちらに回していました。 猿君は体中が痒くてたまらなかったので、ずっと背中を掻いていました。 「どうして、僕が話している時、君は頭をずっと動かしているのですか」と猿君が聞くと「君だって、僕が話している時、自分の体をずっと掻いているではないですか」と兎君は答えました。 猿君は「それは、それは。 しかし僕が、一度決心したら激しい痒みでさえ我慢できるさ」と言い返しました。 すると兎君も「猿君ができるなら、僕も、じっとすることくらい出来るさ」と自慢げに答えました。 そこで兎君と猿君は、十分間じっとして動かないように出来るかどうか賭けをすることにしました。

  しかし、二人共長い時間じっと我慢することが出来ませんでした。 猿君はすぐに体が痒くてたまらない状態になって来ました。 臆病な兎君は自分の安全を確かめることが出来ないので、不安に震え始めました。 しかし賭けに負けたくないので、兎君は自分に起こった昔の出来事を猿君に打ち明けました。 「ある日、僕が広い平原にいた時、とんでもない危険に出会いました。 急に色んな場所から大勢の犬が現れ、左も、右も、前も、後ろも囲んでしまいました。 なので、僕は左も、右も、前も、後ろも、どこにも逃げる場所がなくなりました」と語りながら、兎君がその経験を身振りで伝えようとして、頭をあちらこちら色々な方向に回しました。 すると賢い猿君は、兎君の上手な誤魔化し方に気がついて、彼の話が終わらないうちに、自分の話を始めました。 「僕も、酷い目に会いました。 悪戯っ子たちが、僕に石を投げたので、僕は急いで近くにあった高い木に登りましたが、彼らの投げた石は、僕の体のあらゆるところに当たりました。 背中や手や足、あるいは僕の頭や腰に当ったので、とても痛かったよ」と、猿君が説明しながら自分の体の各部分を示して、上手に痒い場所を掻きました。

   兎君は自分の真似をする猿君を見て、大声で笑いました。 お腹を抱えて笑う兎君を見て、猿君も笑い始めました。 二人共、十分間という僅かな時間もじっとしていることが出来ないことが分かって、兎君と猿君はありのままにお互いの癖を認めようと決めました。

  誰にでも癖はあるものです。 普通、癖は人を軽蔑させ、苛立たせ、あるいは人を嘲笑います。 しかし癖は、誤りや思い違いではありません。 癖の由来を知っていなくても、この自然な動きを簡単に直す力と権利を持つ人はいないでしょう。 人々の間にある平和と良い雰囲気を破壊するために、人の癖を利用する人がいれば、人々の間に友情の関係を強くするために、人の癖を上手に使う人もいます。 キリスト者である私たちは、幸せな絆をつくる人とならなければなりません。 人を嘲笑い、軽蔑するのではなく、私たちは人を愛し、尊敬し、友とする責任を持っています。 なぜなら「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に豊かに注がれたからです」(参照:ローマ5,5)。 いつくしみの特別聖年に当たって 人の癖を見たなら 必ず自分自身の欠点や短所を思い出し、自分自身について先ず笑いましょう。 そうすれば、共に生きる喜びを味わうようになり、すべてを優しい眼差しで見るようになるでしょう。 猿年の新しい年を迎えて、兎君のように 危険について明白な人となり、猿君のように痒いところを遠慮なく掻いて、耐えられない状態の時には、はっきり自分の意見を言って、自分と合わないことをはっきりと表現して、幸せな年をつくりましょう。



鉛筆の特徴

    太郎君という7歳の孫が手紙を書いている自分のお祖父さんを見て、次のように聞きました。 「僕のことを書いているのですか?」と。 お祖父さんは、暫く書く手を止めて微笑みながら、孫をよく見て答えました。 「そうだよ、君のことを詳しく書きましたよ。 しかし大切なことは、私が書いた手紙の文字ではなく、書く為に使ったこの鉛筆です。 君がいつかこの鉛筆のような存在になったら、私はどんなに幸せでしょう」と。

  太郎君はお祖父さんの鉛筆をとって、それをよく見てから「この鉛筆は、別に珍しくありません。 僕が使っている鉛筆と同じです」と言いました。 「そうだよ、その通りだよ。 でも、その人の見方によって、この鉛筆の五つの特徴を見分けられます。 もし君が大人になった時、この五つの特徴を持つなら素晴らしい生活を送るに違いありません」とお祖父さんは答えました。 その言葉に非常に興味を表した太郎君に、お祖父さんは鉛筆の特徴を説明し始めました。

   「第一の特徴は、誰かの手の助けがなければ、この鉛筆は何も書けません。 たとえば、私の手の助けでこの鉛筆は手紙や小説や様々な絵や短いメモなどを書くことができます。 君が大人になったら、色々目立つ素晴らしいことも、あまり目立たないことも実現できるでしょう。 しかし、決して忘れないで欲しいことは、それが出来るのは誰かの手という助け手が、君を導いているからです。 この手は神の手を初め、君の両親や親戚の手でもあり、また君の教育者や友達の手でもあります。 大勢の人の助けや教えと導きなしには、君が素晴らしい人間にはなれないからです。

   第二の特徴は、この鉛筆が綺麗に書き続けるためには、度々鉛筆削りを使うことが必要です。 その時、鉛筆は少し苦しむでしょう。 しかし後で、とても綺麗な洒落れた線を書く事になります。 君も、度々ある種類の試練の苦しみを耐え忍ぶことを学ばければなりません。 なぜなら、この試練は君を揺るぎない強い者、経験のある者、勇気のある者とするからです。

  第三の特徴は、鉛筆は上手に書かれていない文書や間違っている漢字を書き直すために、消しゴムの助けをかります。 君も犯した過ちや失敗したことを認めて、必要なら『ごめんなさい』と言って、その過ちを直すために、その過ちが大きいものであろうと、小さい詰まらないものであろうと、必ず赦しと人の助けをかりなさい。 人間の社会が要求するのは、正しく生きようとする人であり、失敗を越える勇気を出そうとする人です。

   第四の特徴は、鉛筆の材料や色ではなく、まして外面的な形でもありません。 大切なのは、よく見ないと目に留らないこの鉛筆の芯です。 なぜなら鉛筆の芯なしには、何も書くことが出来ないからです。 ですから君の心も大切にしなさい。 特に君の建前と本音がぴったり一致するように努めなさい。 また君の考えが心にある思いを正直に現すように、君の口から出る言葉を注意深く見張りなさい。

   最後に鉛筆の第五の特徴は、鉛筆は必ずメッセージや絵や印などを残します。 君の人生も歴史の流れの中で、きっと何かを残すでしょう。 ですから、人の心に、そして自分の心に深い刻印が残るように、悪い行いや人を傷つける言葉、人を軽蔑する態度を捨て、善を選び、そして多くの人に役に立ち、幸せをもたらす物事を探し求めなさい。 なぜなら、ただ君だけが自分の言葉と行いの責任者だからです」とお祖父さんは、太郎君に真剣に説明しました。

   この太郎君に説明した物語は、私たちにも言われています。 聖書全体は、人が鉛筆の特徴を持ち、それをよく育てることを勧めています。 神の前でも、人々の前でも正直に、正しく生きるように、すべての人に要求されています。 鉛筆の中に隠れている、細くて強い芯のように、キリスト者としての「私たちの命はキリストと共に神の内に隠されています」(コロサイ3,3)。 私たちが行うことは、全て神の愛と救いの計画に親密に結ばれているので、目に見えるしるしを残します。 従って、他の人よりも私たちは自分の人生の責任を背負っているのです。 「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(フィリピ2,14-16)と聖パウロは私たち一人ひとりに願っています。 この物語の鉛筆の特徴を持ち続けるように、互いに助け合い、励まし合うようにしましょう。



十一頭のロバ

    ロバの群れを持っているある年寄りは、それを遺産として自分の三人の子供たちに遺贈することに決めました。彼の遺言によると、長男はロバの群れの半分を受け,二男はその群れの四分の一を受け、三男は群れの六分の一を受けるはずですが、残るロバがあればそれは神様の分になるのだそうです。自分たちの父の死の後すぐに、三人の兄弟たちは集まって遺産の分け前の計算を始めました。

    計算の結果はこの三人の兄弟たちを惑わせました。と言うのは、長男は群れの半分、つまり11÷25.5頭のロバを受け、二男は群れの四分の一つまり11÷42.75頭のロバを受け、三男は群れの六分の一つまり11÷61.83頭のロバを受けることになるからでした。 更に、神様の分け前は残りの0.92頭のロバでした。例え、いくら彼らが前もって神様の分け前を外して、群れの数を10頭、9頭、8頭にしてみても、彼らは父の遺言が要求している通りの遺産分割が中々出来ませんでした。あの世に行った父の遺言を全く実現できない事を理解して、三人兄弟が腹を立て、喧嘩を始めました。彼らの間の雰囲気が益々悪くなったので、長男は隣の教会の神父に遺言の問題を相談することに決めました。この神父が賢明な勧めを与える人として知られていたからです。

    個々の事情を聴いた神父は遺産問題の解決の為に自分のロバを三人の兄弟に与えることを考えました。「きっとこのロバが役に立ちますから あなたがたにさしあげましょう。しかしこのロバがあなたがたにもう必要でなくなった時、必ず私に返してくださいね」と神父は言いました。 長男はすぐ十一頭のロバの群れに神父のロバを加えました。こうしてロバの数は12頭となりました。長男は、もう一度、二男と三男と共に分け前の計算をしました。今度はすべてはうまくいきました。長男は群れの半部、つまり12÷26頭のロバを受け、二男は群れの四分の一つまり12÷43頭のロバを受け、三男は群れの六分の一つまり12÷62頭のロバを受けました。結局この三人の兄弟たちは遺言の通り6+3+2 =11頭のロバを分けました。そして不思議なことですが神様の分け前である一頭のロバが残っていました。長男はこのロバを神父に返しながら「やはり、このロバは全く役に立ちませんでした。神父様が言われたようにお返しします」と言いました。遺産の分け前を受けて、三人の兄弟たちは仲直りしました。神父のロバのお蔭で彼らの間に平和が戻りました。

    この物語の神父のロバのように、無償で与えられている神の恵みも役に立たないと思う人がいます。しかしこの恵みがなければ、人は次々と解決できない問題とぶつかります。それでもその日その日の為に与えられているあの神父のロバのように、神の恵みは人々を仲直りさせ、平和をもたらし、安定した未来を開きます。思いがけない時に無償で与えられる神の恵みの名は「摂理」です。神の摂理は日常生活を楽にし、知らない内に私たちに幸せの道を開きます。 ですから神の慈しみに対して無関心な人にならない為に、詩編の質問に具体的に答えましょう。「神が与えて下さったすべての恵みに、わたしはどのようにこたえようか」(詩編 116,12)。



金の鎖と象牙の櫛 (オー・ヘンリーの作品より)

   山のふもとに暮らしていた二人の夫婦は結婚した日から尽きることのない愛で愛し続けてきました。苦労の多い乏しい生活を送りながら二人は心に大きな希望をそれぞれに抱いていました。というのは夫が貴重な金の懐中時計を持っていましたが、その鎖は普通の紐でした。貧しさのせいで金の鎖を買うことが出来ませんでした。妻は長く美しい髪を持っていて、それを飾るための象牙の櫛がほしいと思っていましたが、それを買うお金がありませんでした。二人は夕食のときなどに、お互いののぞみについて語り合いました。しかし長い年月の間に夫は金の鎖のことをだんだん諦めていきました。同時に妻も象牙の櫛のことを忘れていきました。結局二人はそのことについてもう話すこともなくなりました。

   ところで彼らの結婚25周年の朝、夫は自分の妻が長く美しい髪を突然に切ってしまったのを見て大変驚きました。「一体あなたは何をしたのか」と夫は叫びました。何も言わないで妻は手を開いて、夫の懐中時計にあう輝く金の鎖を彼に見せました。「あなたが昔から欲しがっていた金の鎖を今日の記念日にあなたにプレゼントするために、私は自分の髪を切って売りました」と妻は言いました。それを聞いて夫は「ああ何ということだ!私もあなたが昔から欲しがっていた象牙の櫛を今日の記念のプレゼントとして、あなたに贈るためにわたしの金の時計を売ってしまいました。」 全く役に立たないプレゼントを見て、二人は泣きながら抱き合いました。そして相手に対する深い愛を神に感謝しました。

   私たちのために死ぬことによって、イエスは御自分の愛を表しました。私たちが永遠に生きるためにイエスは自分の命を捨てました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15,13)からです。私たちは愛に生きるために何を捨てるでしょうか。他の人の幸せのために、はたして私たちは自分にとって一番大切なものを捨てる覚悟があるでしょうか。それがなければ愛の完成にたどり着くことはとても無理です。



若者と隠遁者

   ある若者は聖なる隠遁者を訪れるために彼の住んでいる人里離れたところへ行きました。彼と出会って次のような文句を言い始めました。「僕は教会が好きで自分の信仰が誇りです。しかし僕は自分の共同体についていろんな面で不満があります。僕は完全な共同体が欲しいです。それをどこで見つけることが出来るでしょうか。」

   隠遁者は次のように答えました。「わたしが祈っているこの古い小さな教会をよく見なさい。古い壁には苔と雑草が生えているし、屋根はあちこちで雨漏りがします。壊れたステンドグラスから冷たい風が吹き込み、床にはネズミやトカゲが這い回っています。それにもかかわらず、神は確かにこのボロボロの場所に住んでおられます。すべての共同体にたいして同じことが言えるでしょう。キリスト者の共同体は弱い人や欠点や罪のある人で作られているので完全な共同体はどこにもありません。しかし神はこのように不完全な共同体にも住んでおられます。もし万一完全な共同体を見つけるとしても、そこにあなたが入るとたちまちその共同体は不完全になります。あなたも弱く欠点と罪を持っているからです。」

   キリスト者は他の人よりもすばらしい人間ではありません。みんながそれぞれ欠点や短所、過ち、自己愛、利己主義を持っています。しかし彼らはキリストに従いながら愛の完成を目指しています。共同体の中で一緒に祈り、互いに支え合い、赦し合うことによって神が望まれる新しい人になろうとしています。ですから不完全な教会について不平不満を言うよりもこの教会が聖なる教会になるようにお互いに努めましょう。「イエスの名によって二人また三人が集まっているところにはイエスが共にいる」(参照マタイ18,20)からです。そしてイエスが来たのは「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」(マタイ9,13)だからです。


静かな心で

   ある日、インドのアーシュラム(聖者の指導のもとに修行者がともに生活する道場)の先生は清めの式の為にガンジス川へ行きました。数メートル離れたところで、ある家族のメンバーが激怒して、互いに向かい合って、大声で叫んでいることに気づきました。彼はそれを見て微笑みました。そして自分の弟子たちを呼び寄せて、彼らに次のように尋ねました。「怒っているこの人たちが、なぜ互いに向かい合って叫んでいるのか、はたしてあなたたちは分かるでしょうか」と。

   
弟子たちは少し考えた後、正しい答えを出そうとしました。「意見が合わなかったから、彼らはその不満で喧嘩をしています」と一人の弟子が答えました。「彼らは顔と顔を合わせているので、叫ぶ必要がありません。 むしろ優しい声で言いたい事を互いに言えるでしょう」とニコニコしながら先生は言いました。「もしかしたら、皆、耳が遠くなっているのではないですか」ともう一人の弟子は答えました。笑いながら先生は言いました。「いいえ、そうではない。」そこでもう一人は「きっと、自分の違った意見をはっきり聞かせる為に皆が叫んでいるのでしょう」と言いました。更に、他の弟子は「ああ分かりました、今日の昼ご飯が不味かったのでしょう」と説明しました。弟子たちのすべての答えを聞く度にアーシュラムの先生は笑い続けました。

     弟子たちが正しい答えを見つけられなかったので先生は次のように言いました。「二人の人が互いに怒っている時、彼らの心はすぐに遠く離れます。自分の意見を伝える為に彼らは、どうしても、叫ばなければなりません。それは心が作られた距離を乗り越える為です。怒れば、怒るほど彼らはもっと大きな声で叫ばなければなりません。彼らの心はもっと離れるからです」と先生は説明し始めました。「具体的な例を出しましょう。恋人たちは絶対に大きな声で話しません。彼らの心がとても近いので、彼らの口から出る言葉は小川のせせらぎに似ています。時には、彼らには言葉さえいりません。互いを見つめる事だけで恋人たちは様々のことを悟るからです」と先生は言いました。更に自分の弟子たちをよく見ながら先生は次のように結論を出しました。「あなたたちが相談する時に、自分の心が遠く離れないように気を付けてください。さもないと、いつか心の距離が広がりすぎると、もはや出会う道を見付けることが出来ないと言う危険があります」と。

   私たちは不満をかかえている時自身を制御することや冷静さを保つことが難しくなります。落ち着いた気持ちで自分の不満の理由と原因を究明し、分析するよりも、私たちはすぐ感情的に激しく怒るのです。度々怒りのあまりある人々はののしって、暴力をふるうのです。ですから不満が私たちの心を満たす時には、必ず口を堅く閉じましょう。 自分をコントロールする為に、怒らせた人に対する忍耐と信頼が必要です。「わたしは柔和で、謙遜な者だから、わたしに学びなさい」(マタイ11,29)とイエスは言いました。ののしられ、侮辱され、殴られてもイエスはへりくだって「かがみ込み口を開きませんでした。」(参照イザヤ53,7)

   「沈黙して、悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ」(詩編37,7-8)と聖書は勧めています。怒りはいつも高慢から湧き出ます、ののしりと暴力は自己愛から生まれてきます。ですから自分の内に静かな心を育てるように主イエスに学びましょう。神の似姿に造られた私たちは神のように「怒るに遅く、忍耐強く、慈しみに深い」人となりましょう。人に向かって大声で傷つける怒りの言葉を叫ぶよりも、あなたの霊性と静かな心によって福音が与える救いの喜びと平和の喜びを叫びましょう。


三つのたとえ話

−1− マハラジャのハサミ

    インドのマハラジャは、どうしても有名で知恵のある賢い人に出会いたかったので、長い旅を続けて、ようやくその人の前に立つことができました。マハラジャは賢い人の前にひれ伏して、美しくとても値打ちのある沢山のダイヤモンドを嵌め込んだ純金のハサミを彼にプレゼントしました。 賢い人はこのハサミを手に取り、よく見てから彼に返しました。 「素敵なプレゼントを有難うございます。 しかしこの高価なハサミを私は使いません。 その代わりに普通の針をいただく方が幸せになると存じます」と賢い人が言いました。 マハラジャはビックリして「全く私にはあなたのおっしゃる事が理解できません。 もし一本の針があなたに必要なら、当然、一のハサミも必要でしょう?」と答えました。 「いいえ、マハラジャ様。 ハサミは物を切ったり、或いは物を切り離したりします。 しかし針を使えば、私は破れた物や引き離された物を繕って、縫い直す事が簡単に出来ます。 実は私は、詰まらない口喧嘩のせいで離婚したり、別居したりした人々に、毎日、愛と仲直り、交わりと一致について教えています。 ですから、アッと言う間に物を切り落とす高価なハサミよりも、私は時間をかけて物を縫い直し、一致させる一本の普通の針が欲しいのです。それを私に下さい」と賢い人がマハラジャに答えました。

    あなたは人々を傷つけ、分裂させ、追い出す人々の味方ですか、それとも人々の過ちを赦し、人々を慰め、仲直りさせる人々の味方ですか?

−2− 相応しい十字架

    寂しそうな人が毎日神に苦情を言い続けていました。 「神様、人生が私に下さった十字架は重過ぎて、私には全く合いません。 私に与えて下さったこの十字架は、他の人のために作られたものだと思います」と。 長い間知らん顔をして沈黙を続けていた神は、ある日次のように彼に答えました。 「分かった、分かった。 それなら、あなたに救いの手を差し伸べましょう。 今、あなたの前にたくさんの十字架を置きますので、自分の好みに合う好きな十字架を自由に選んでもいいですよ」と。 そして、突然この人の目の前に様々な大きさと重さの違う数えきれない程の十字架が現れました。 嬉しくなったこの人は、直ぐに自分が生まれた時から持っていた十字架を捨て、自分にぴったり合う十字架を捜し始めました。 最初の十字架はとても軽いでしたが、色々と試した結果、自分の肩に傷が付きました。 二つ目の十字架は、最初のものと同じ重さでしたが、しかし長過ぎて歩きづかいでした。 三つ目の十字架は、非常に小さいですが、ザラザラしていたので、掴む事だけで至難の業でした。 彼が見つけた木の十字架も、鉄の十字架も中々自分に合いませんでした。 しかし諦めずに捜し続けた忍耐のお蔭で、ようやくこの人は自分に合い、運び易い十字架を見付けました。 非常に喜んだ彼は神に向かって「ご覧ください。 見つけました。 これこそ私に合う十字架です」と大きな声で叫びました。 「本当にその通り、正しい選びです。 しかしこれは二人だけの話ですが、この十字架はあなたが私に苦情を言い続けていた時に背負っていた十字架ですよ」と神は笑いながら答えました。

    神に文句や苦情を持ち込む前に「神は人を耐えられない試練に遭わせることはなさらず、むしろ、耐えることができるように、試練と共に抜け出る道をも用意してくださる」(参照:1コリント10,13)ことを忘れないようにしましょう。

−3−結び目

    パリ外国宣教会の年寄りの神父は、ある人に次のように教えました。 「全ての人は、一本の糸によって神と繋がっています。 人は罪を犯す時、この糸が切られています。 しかし、人が真心から自分の過ちを悔い改めて、そして赦しの秘跡を受けるなら、神はその糸に結び目を作ることになります。 勿論、この糸は短くなりますが、同時に人は神により近くなるのです。 従って、罪から罪の悔い改めへ、罪の赦しから結び目へと段々進むにつれて、人は益々神に近い者になります。 もしあなたが早めに神に辿り着く事を望むなら、犯した全ての過ちを心から悔い改めなさい。 そして何よりもまず、赦しの秘跡を度々受けなさい」と。

この賢明な勧めを聞いて、あなたはどのように行動しますか?



四本のローソク

   ほの暗い教会の中で、一人の子供が祈っていました。 祭壇の上には、ゆっくりと燃え尽きていく四本のローソクが置かれています。 教会の静けさの中で、ローソクたちが小声でささや合っています。 子供は耳をすましてローソクたちの話しを聞きました。

    最初のローソクは不満を漏らして次のように言いました。 「私は平和の光です。 でも人々は本当に私を望んでいるわけではありません。 世界中のあらゆるところで、戦争、暴力、テロ行為、殺意などが溢れています。 私は自分の光を無駄に灯してきたのではないかと思います。 もう限界です。 そう、私はもう消えるほうがよいのです」。 そう言って、平和の光のローソクのともしびは弱くなり、その炎は消えてしまいました。

    二番目のローソクも苦情を言いました。 「私は信仰の光です。 けれども皆は、何についても信じる為に証拠を要求します。 真理のよりどころを探すことにはほど遠く、人々は占いの嘘や偽りの予言や迷信のうちにむなしく幸福を探し求めています。 そして信じる為に人々は、はっきりした証拠を要求します。 私はここでは最早役に立たちません。 実際、私の煌めきはどんどん弱っていくのを感じています」。 するとその時、微かな風が吹いただけで、信仰の光のローソクの灯は弱くなり、その炎は消えてしまいました。

  三番目のローソクが続いて言いました。 「私は愛の光です。 しかし人々は私の大切さを全く理解しません。 彼らは一瞬に過ぎない身近な楽しみと私を混同してしまいます。  私は永遠に生き続けるものなのに…。 もう燃え続ける力はありません」。 そう言うと愛の光のローソクの灯は弱くなり、その炎は消えてしまいました。

  ローソクたちの話を聞き終わった丁度その時、子供は立ち上がって、消えた三本のローソクに近寄り、彼は怒って叫びました。 「どうして消えちゃったの? ずっとともっているはずじゃなかったの?」と。 そして、子供は泣きだしました。 そこで、まだ灯っている最後のローソクが子供に言いました。 「泣かないで、私は希望の光です! 私の炎が灯っている限り、あなたは他の三本のローソクを、また灯すことができるのですよ」と。 涙にぬれた顔で、言われたように、子供は希望のローソクを取って、炎の消えた三本のローソクに火を灯しました。 涙をぬぐってから、子供は四本のローソクたちに厳しい声で言いました。 「もう二度と消えないで! 君たちなしに未来はないよ、生きる意味もないし、幸せにもなれないんだから」と。 四本のローソクは灯り続けることを約束しました。 その約束を聞いた子供はとても喜んで教会を後にしました。

   人生の試練や思いがけない出来事にもかかわらず、あなたの希望の炎が消えることのないように! あなたが生きる限り、この子供のように、この世に平和、信仰、愛の光をもたらす人になりなさい。 闇を憎むより、一本のローソクを灯す方が素晴らしいのです。 ともっていないローソクは、決して他のローソクに火を付けることが出来ません。 しかし、灯っているたった一本のローソクがあれば、他のたくさんのローソクの火を灯せることを絶対に忘れてはいけません。 逆境や、人々の無理解、無関心を深く悲しまずに、あなたの心の奥底に希望の錨を下しましょう。 そして、どんな試練があなたを襲っても、歩き続けることを恐れないでください。 あなたを立ち止まらせて、風があなたの希望の炎を消してしまうことだけを恐れましょう。 更に、あらゆる面で、あなたの人生は光り輝くものとなるように 平和、信仰、愛と希望の泉である神の近くに留まって、決して離れないようにしてね!


大事な選び 

   ある寒い冬の夜遅く、簡素な家に住んでいる夫婦が食事をしている時に、誰かがドアを叩いていることに気づきました。 奥さんがドアを開けると、三人の老人が立っていました。 そのうちの一人が直ぐに「何か私たちに食べさせてください」と願いました。 心の優しい奥さんは「そのようにしたいのですが、我が家は貧しいのでスープしかございません。 それもほんの少しだけ残っていて一人分がやっとで、三人分はありません」と答えました。 一人の老人が言いました「ご心配なく、それで充分です。  ただ、私たちの三人のうちの誰がそのスープをいただくかを選んでください。 私は“富”と呼ばれています。 私を選ぶなら、あなたの家に絶え間ない豊かさを招き入れます」と説明しました。 次の老人は「私の名は“幸福”です。 もし私にスープをご馳走してくださるなら、私はいつまでもあなたの家に幸運をもたらします」と言いました。 三番目の老人は「私は“愛”と呼ばれています。 私を歓迎してくださるなら、あなたの主人とあなたの間の愛を永遠にします」と約束しました。

   この奥さんはどうすれば良いのか分らなかったので、「少しお待ちください」と言って、ご主人の傍に行って、三人の老人の話を説明して誰を招くか相談しました。 この夫婦は、自分たちは貧しい生活を送っているので、富があれば何でもできると考えました。 私たちは愛し合っているし、また元気で暮らして来ているので、永遠の愛も絶え間ない幸福も拒んでも問題にならないと結論しました。 そして奥さんは、三人の老人の所に戻ってきました。 しかし彼女は、今、夫と決めたことを変えて、「私たちのほんの少しのスープを分かち合うために“愛”を私たちのテーブルにお招きしたいです」と言いました。 この答えを聞くと、三人の老人は一緒に狭いドアを通って夫婦の家に入りました。

   驚いた奥さんは「お招きしたのは一人だけなのに、どうして皆が一緒に入るのですか?」と尋ねました。 すると、一人の老人が答えました。 「あなたたちは良い選びをしました。 “愛”を受け止める人は、同時に自分の家に幸福と豊かさの訪れを受けることを可能とするからです。 愛に勝つものは何もありません。 愛は人の人生をあらゆる面で満たしますから。

   もし、人がからし種一粒ほどの信仰を神に示すなら、神は直ぐご自身の全てと持っておられるものを全て惜しみなく、その人に与えてくださいます。 残念なことですが、この世では富と幸福を追求する人々が大勢います。 簡素な生活を避けて、まだ長く使える可能性のある物を捨て、新しい物を手に入れるために長い行列をつくる程に競争します。 神の愛は、人の豊かさと幸福であることを忘れるキリスト者も、時々この新製品の競争に盲目的に参加しています。 この世を去る時に、人は集めた富や物を自分の墓まで持って行くことは出来ません。 愛だけが永遠に続き、愛だけが人を死後の世界まで伴います。 私たちは集めた富、味わった幸せについてではなく、「ただ示した愛についてだけ、神に裁かれるでしょう」と、十字架の聖ヨハネは教えました。 ですから「神の愛が私たちの心に注がれている」(ローマ5,5)ことを思い出しながら「自分のために生きる」(ローマ14,7)のではなく「愛によって生き、愛のために生きる」ように全身全霊を尽くしましょう。


ストレスから救われた振り子時計

   何についても心配する家の壁に掛かられている振り子時計は、ある日、一年間に、何回「チクタク」と振り子を振るかについて考え始めました。 今は1秒間に1回だけ「チクタク」と振り子を振っていますが、もし1秒間に「チクタク」と2回振り子を振るなら、1分間で120回、1時間で7,200回、1日に172,800回、そして1週間で1,209,600回「チクタク」と振り子を振ることになります。 即ち、この振り子時計は1年間に6,300万回「チクタク」と振り子を振らなければなりません。 それについて考えれば考えるほど、振り子時計は益々不安を感じ始めました。 その結果、振り子時計は、ストレスのせいで病気になりました。

   振り子時計の精神科医に自分の問題を打ち明け「最早そんなに『チクタク』をする力がない」と言いました。 精神科医は、振り子時計に尋ねました。 「あなたは今、1秒間に何回「チクタク」と振り子を振るのですか?」と。 「今は、1回だけです」と振り子時計は答えました。 「それなら、心配する必要はありません。 1秒間に1回だけ「チクタク」と振り子を振って、次の「チクタク」については何も考えないでください。 そうすれば、きっと元気になるに違いありません」と精神科医は振り子時計に勧めました。 その日から、振り子時計はその通りにしたので、思い悩まずに昔の元気を取り戻して喜んで「チクタク」と振り子を振っています。

  同じように、心配する私たちにイエスは次のように言われます。 「明日のことまで思い悩むな。 明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6,34)と。 私たちも解決出来ない問題がある時、振り子時計がしたように、心と魂の医者であるイエスにその問題を打ち明けましょう。 毎日ずっと私たちと一緒におられるイエスは、その日その日の恵みを与えられるでしょう。 そして、未来の出来事は一度で全て出来るのではなく、少しずつ毎日現れることを忘れないようにしましょう。

 ですから、体と魂の健康を保つために次の幸せのレシピに従いましょう。

  人生のカップの中に、真の愛の砂糖と理解の薬と親切の水を入れて、柔和のスプーンでよく混ぜましょう。 そして忍耐の粉をふりかけて、悪口と批判の攻撃に抵抗するために、度々うがいをしましょう。 メインディッシュとして次のことを特に勧めます。 善意のフライパンに、日常の慈しみのバターを入れ(注意:高慢と利己主義の油は使わないで)、揺るぎない信仰と条件なしの希望の種をたっぷり入れましょう。 更に、分ち合いともてなしと赦し合いを充分加えて、喜びの火の上でゆっくり温めましょう。 その素晴らしい真理の風味を良く出す為に、真実と正直を香草としてふりかけましょう。 そして、出来れば静かな謙遜な心で、カロリーの高いこの料理を味わいましょう。 最後の仕上げに、人生の愛の完成に辿り着くために、極上銘柄のワインのユーモアを一杯飲めば、気分は上々です。 そして、この料理をより高く評価する為に大勢の人を誘いましょう。 あ、そうそう、食前の祈りを忘れないようにしましょう。 では、人性に乾杯! Bon appetit!(ボン・アペティ)


様々な見方 (2015年2月)

【その1】

    新婚生活を始めた若い夫婦は新しいマンションの5階に引っ越しました。このマンションの窓から、手前の建物のマンションの様子をよく見ることが出来ます。引っ越しの次の日に、朝食を食べている時に、前のマンションの部屋の女性が洗濯物を広げて干しているのを若い妻が見ました。「あの人は服を洗うのがとても下手ですね!見て、あの洗濯物はまだ汚れていて、真っ白ではありません」と、彼女はご主人に言いました。主人はそれを見ましたが、何も言いませんでした。

    前のマンションの女性が洗濯物を干す度に「見て!あの汚い洗い方。どうして彼女はもっと綺麗に洗濯物を洗わないのでしょうか?」と若い妻が言いました。主人はいつもの通り無言でした。しかしある日、この若い妻はとても驚きました。と言うのは、前のマンションの女性の干している洗濯物が真っ白で綺麗に洗ってありましたから。「あなた、見て、彼女はやっと洗濯物を綺麗に洗うことが出来ました。一体誰が、彼女に洗い方を教えたのかしら…?」と若い妻は主人に尋ねました。彼は、直ぐに答えました。「誰にも…。初めから彼女の洗濯物は綺麗でした。ただ、私が今朝早めに起きたので、このマンションの汚い窓ガラスを全て綺麗に拭いただけです」と主人は答えました。

    イエスが言われたように、私たちは「人の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのでしょうか」(ルカ6,41)。ですから、人のやり方を批判する前に、自分の眼差しの質を正して、自分の心を汚すものを綺麗に掃除しましょう。

【その2】

    昔あるアフリカの王が自分のすぐ傍に幼ない時から大好きな親友を置きました。しかしこの親友は、良い出来事に対しても悪い出来事に対しても「それはとても良かった」と言う癖がありました。ある日、ライオン狩りに行った王が、不注意によって銃を落とし、その衝撃で発射された弾は、王の親指を打ち抜いてしまいました。それを見たこの親友は直ぐに「それはとても良かった」と言いました。それを聞いて、とても怒った王は彼を宮殿の牢に投獄しました。

    一年が過ぎて、王はもう一度ライオン狩りに行きました。ところが、王は人食い部族に捕らえられてしまいました。彼らは大きな鍋と蒔きの束を持って来ましたので、王は観念して「きっと自分の人生は、彼らの鍋の中で終わるに違いない」と思いました。ところが、彼らの中の一人の者が、王の手の親指がないことに気づきました。完璧でない人の体を食べると自分たちに必ず恐ろしい病気が襲ってくる、と言う迷信を信じていた彼らは、直ぐに王を解放して追い出しました。

    宮殿に戻って来た王は、その時、親友の「それはとても良かった」と言う言葉を思い出しました。牢からその親友を解放した後、王は彼に言いました。「君が正しかった。私が親指を失ったことは、本当にそれはとても良かった」と王は認めました。そして自分がどんな危険を冒したかを親友に説明し「君を牢に入れたことを赦して欲しい」と願いました。それを聞いた彼はす直ぐに返答しました。「牢に入れたのは、それはとても良かった。だって、もしその時に、僕が王様と一緒にいたなら、人食い部族の人たちの鍋の中で僕の人生は終わっていたでしょう。きっと食べられたのは僕だけだったでしょう。嗚呼、それはとても良かった」と笑いながら王の親友が言いました。

    私たちもこの親友のように、日常生活の出来事を全て良い目で見るなら、きっと私たちの人生の幸せを深く味わうでしょう。聖パウロが言っているように「神を愛する人は万事が益となる」ので、神の愛で包まれている私たちは何も恐れることはありません。



子ライオンの発見 (2015年1月)   

    ある日、とても強くて大きいな美しいライオンは、羊の群れの中で遊んでいる子ライオンを見つけました。 この子ライオンは、まるで羊のように草を食べ「メェーメェー」ト鳴いていました。 もしこの強いライオンが、聖書を読んでいたなら、イザヤの預言が実現されたと思ったに違いありません。 「子ライオンも牛もひとしく干し草を食らう」(イザヤ11,7)、しかしこの強いライオンはそれを知らなかったので、非常に驚きました。 辺りの様子をよく見て、羊の群れを怖がらせないように、彼は子ライオンにゆっくり近付き、そばに来るように合図しました。

   少し不安を抱いて子ライオンは好奇心をそそられていたので、大きなライオンに近寄りました。 「君は、一体ここで何をしているんだい?」と大きいなライオンは尋ねました。 「僕は子羊です。 この群れに属しているんだよ」と子ライオンは元気な声で答えました。 「いいえ、それは違うよ!君はライオンの子供だよ」と強いライオンが言いましたが、子ライオンはそれを認めようとしませんでした。 「僕は子羊です。 だって美味しくて柔らかい草を食べるし、皆と一緒に遊んだり、散歩したり、寝たりしているもの…」と子ライオンは誇りを持って言い返しました。 強いライオンは、この子ライオンには、はっきりした証拠を見せない限り、彼は絶対に信じないと分かって、子ライオンを近くにある川まで連れて行きました。

   「私と同じようにしないさい。 水の中に映っている君の顔と私の顔と比べてみなさい。 同じように見えませんか?」と強いライオンが聞きました。 水の中に映った自分の顔が強いライオンの顔によく似ていることを見て、子ライオンは大きなショックを受けました。 そこで、強いライオンは優しく彼を力づけながら、次の説明をしました。 「君は間違いなく子供のライオンです。 もう、君は羊たちと一緒に暮らすことはできません。 何故なら君はいつか私と同じように強くて大きなライオンになるので、その時羊の群れも人々も皆、押さえることの出来ない恐怖を感じて、君から逃げるか君を殺すかどちらかです。 ですから、私は君にライオンの生き方を教えたいのです」と大きなライオンは言いました。 彼の長い話を聞いてから、子ライオンは羊の群れから離れ、大きなライオンの指導を受けながら、彼に従ってライオンらしく生きることを決心しました。 「僕は今すぐに羊の生き方を忘れて、それを捨て去ることは難しいと思います。 ですから僕が完全なライオンになるまでに、必要な時間をください」と、子ライオンは願いました。 「当然です」と強いライオンは答えました。

   この子ライオンのように、間違って私たちは「人々の群れ」に属していると思うので、彼らと同じ生き方をしているのではいないでしょうか。 人間の世界に属する者として私たちは働いたり、食べたり、飲んだり、遊んだりします。 しかし、いくら人間に相応しい生き方を送っても、洗礼の恵みを受けた私たちは「神の子」です。 イエスを信じている私たちは、神の似姿で創られ、神の栄光で包まれていることを知るようになりましたから、もはや一般の人のように生きることが出来ません。 「ユダのライオン」(黙示5,5)と名付けられているイエスは、キリスト者の正しい本性とそのアイデンティティーを教え、それを見せる為にこの世に来られました。 また私たちが神の子として生きるように、イエスは自分に従って歩むことを優しく誘い教えます。

   自分をだますことがないように,即ち世間の流れにありのままに流されない為に、キリスト者はイエスの知恵の言葉や真理に溢れる教えに従って、神の子として生きようとします。 愛の完成まで導かれるために、イエスはいつも私たちに回心する為に必要な時間を与えてくださいます。 ですから、新しい年の時の恵みを無駄にしないように、神の子の生き方を益々学びましょう。 この羊の年に当たって、自分が誰であるかをきちんと理解し認めて、神の子としてこの世で生きていこうと決心しましょう。 神が私たち皆を愛の完成にまで導きますように、心より祈っております。



 個性が起こす問題   (2014年12月クリスマス)

   ある日、大工職人が留守をした時に、彼の仕事場の全ての道具たちが大切な会議を開くために作業台に集まりました。 会議の題は、「道具の共同体の中から待遇改善のために誰を追い出すべきかについて」でした。 ひそひそ話が長く続いて、そのうち声が大きく激しくなり、荒々しくなってきました。

   そこである道具が(のこぎり)婦人を指さして次のように訴えました。 「耳障りなゴリゴリと言う音を立てるこの鋸夫人をすぐ追い出してください。 彼女は鋭い歯で木を噛む時に歯ぎしりをします。 おまけに彼女の性格は気難し過ぎます」と。

   すると、他の道具も同じように他の道具を責め始めました。 「私たちの間で断定的な態度を示すのはあの先輩(かんな)さんです。 彼が動くと、あっと言う間に木を削ってたくさんの木くずを作り、そして何でも平らにしてしまいます」と。 すぐ他の道具が「いいえ、追い出すべきはこの金槌(かなづち)君です。 彼はとても騒がしいので私は頭が痛いです。 彼のトントンと打つ音は頭にくるし、神経を苛立たせます。 もう我慢できません。 彼を是非、追い出してください」。

   他の道具が叫びました、「釘の兄弟たちについてどう思いますか。 彼らはとても気難しく、何でも刺し傷つきますので、この釘の兄弟たちと共に生きることが出来るでしょうか。 どこかへ消えて欲しいです」と。 「そうであれば、スライサー穣とその仲間たちの(やすり)やサンドペーパーも一緒に出て行って貰ったらどうだ」ともう一つの道具が苦痛を訴えました。 「彼らは絶え間なく周りを摩擦して(こす)る音を出します、私は精神的にもう耐えられません」。 すると堰を切ったように次々に、釘抜きはドライバーを批判し、螺子(ねじ)(くぎ)たちはモンキースパナの悪口を言い、三角定規は万力(まんりき)を侮辱しました。 とうとう巻尺と(のみ)は殴り合を始めましたので、彼らを落ち着かせて別々にする必要がありました。

   大工職人の道具たちが、他の道具の意見を聞かずに自分勝手に大きな声で自分の意見を言い張ったので、会議は大混乱に陥りました。 金槌(かなづち)君は(のこぎり)婦人と争い、釘の兄弟たちはスライサー穣と論争し、とうとう道具の共同体は一致を失ってしまいました。 結局会議の終わりには、全ての道具が互いに互いを批判し追い出そうとしました。

  ちょうどその時、大工職人が帰って来る足音が聞こえました。 すると、素早く道具たちは自分の場所に戻って、静かになりました。 大工職人は作業台に近寄り、一枚の板を取って耳障りな音を立てる(のこぎり)婦人でこの木の板を切りました。 そして削ってたくさんの木くずを作る先輩(かんな)さんがこの板を綺麗に削りました。 その後、大工職人は数日間掛けて何でも刺す釘の兄弟たちや、頭にくる騒がしい音を出す金槌(かなづち)君や(こす)れる音を出すスライサー穣など、喧嘩を止めない気難しい道具の共同体の全ての道具たちを使って作業をしました。 そして、大工職人は生まれた幼子の命を見守る為の立派な揺りかごを作りました。

  私たち一人ひとりは完璧ではありません。 皆それぞれ自分の欠点、過ち、癖、性格の特徴が目立ちます。 また自分の存在はある人にとっては迷惑です。 しかし私たちは神にとって救いの計画のための必要な道具です。 使徒パウロが教えているように、各自は互いにキリストの体の部分です。 「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです…あなたかたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(1コリント12,21-2227)。 私たちの弱さ、不完全さ、短所、未完成で気難しい性格にも拘らず、キリストの栄光ある体となる為に、神は私たちを家族として、あるいは共同体として集めました。 一緒に暮らす必要性を改めて深く考え、神への愛と隣人への愛の掟を実践しましょう。 そして近づいて来るクリスマスには皆で一緒に、幼子イエスの命を見守る美しい揺りかごのようになりましょう。




 三つのフィルター

     イタリアの小さな村で、噂話や悪口が大好きな人がいて、毎日あちらこちらで、誰かに嘘や出鱈目をまき散らし、言いまわっていました。 人を騙したり、怒らせたりすることや色々ないたずらをすることは、彼のお気入りの活動でした。 村の人々は彼に「腹黒い狸」と言うあだ名をつけ、出来るだけ彼を避けようとしていました。 それにも拘らず次々と皆が彼の悪口の餌食となっていました。 ある日「腹黒い狸」は、村の近くにある山の麓の洞窟に住んでいる年寄りの隠遁者の所に行って、悪さをすることにしました。

     「こんにちは、お邪魔します。 是非、今日は、あなたに面白いことを伝えなければなりません。」と「腹黒い狸」が言い始めると、彼の悪戯な性格と悪才ぶりを知っていた隠遁者は、直ぐに「ストップ」と叫びました。 「あなたが私に言う前に、言いたい事を三つのフィルターにかけてみましたか?」と隠遁者が聞くと、腹黒い狸は「えっ? なんですか? その三つのフィルターと言うのは?」と、戸惑いながら質問しました。 「はい、友よ。 あなたの話を私に話す前に今から言う三つのフィルターに入れなければなりません。 先ず、第一のフィルターは“真実のフィルター”です。 あなたが私に伝えたい言葉は本当のことでしょうか。 正直に答えなさい。」と隠遁者は厳しく命じました。 隠遁者の厳格な言葉に戸惑った腹黒い狸は、初めて正直に「いいえ、ただある人々からそれを耳にしただけです。」と答えました。

     「そうですか。 それは、それは。 第二のフィルターは“親切のフィルター”です。 あなたが私に言いたいことが真実でなくても、その話はきっと私に良いことをもたらし、私の心を喜びで満たすでのしょう?」と隠遁者は、今度は優しく質問しました。 「えっ! そうですねぇ…あの…その、あの…、はっきり言えば、よいことや喜びをもたらすよりも、きっと怒りを生み出すと思います…。」と腹黒い狸は恥かしくなって返事をしました。

     「そうですか。 まあ、仕方がないですね。 それでは三番目のフィルターを使いましょう。 このフィルターは“有用なフィルター”です。 あなたが言いたいことは、真実ではなく、親切ももたらさないけれども、きっととても役に立つことでしょう?」と隠遁者に聞かれると、腹黒い狸は益々自信を失ってもじもじしながら「僕の話はあなたにとって、全く役に立たないと思います。」と小さな声で答えました。 「そうですか。 そうであれば、私はその話を聞きたくありません。 あなたの話が真実でも、親切でも、有用な話でもないのなら、私はあなたにそれを早く忘れるように勧めます。」と微笑みながら言って、隠遁者は自分の洞窟の奥に入りました。

     私たちは日常生活の中で様々のお知らせや噂話や偽りの話や人の悪口に耳を傾ける傾向を持っています。 そしてまた、私たちはその話を確かめもせず、正しく判断もせず、直ぐに誰か他の人の耳に囁いててしまいます。 その結果、人が傷つき、人の評判を汚し、その上自分自身の立場も悪くなるのです。 「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」(マタイ15,11)とイエスは言われました。 フランスの諺に「話す前に口の中で七回自分の舌を回すこと」と言うのがあります。 つまり、話す前にじっくり考えることを勧めています。 また、真実を言うことが必ずしも良いことだとは限らないので、暫く口を閉じて、知恵を尽くして、人に言いたいことを必ず“三つのフィルター”に掛けて検証しましょう。


王様の庭園

    ある王は自分の宮殿の傍に立派な庭園を造らせました。 この庭園には珍しい花々や色々な種類の木々や美しい植物が植えられていたので、庭園の評判は遠くまで広まりました。 毎日、王様は庭園の中を歩きながら幸せな気分になり、様々な木や花や植物を見たり、触れたり、親切な言葉をかけたりしていました。 王様にとってこの庭園は憩いと安らぎの場でした。 ある日、王様は遠くに旅に出かけました。 長い旅から帰って直ぐに、王様はまた以前のように庭園の散歩を始めました。 ところが、王様は変わり果てた庭園の様子を見て非常に驚きました。 何故なら木々も花々も植物もみな弱り果て、半分枯れていたので、とても心が痛みました。

    以前は生き生きとしていて、とても荘厳な松の木に王様は何があったのか尋ねました。   「王様が僕に長い間会いに来てくれなかったので、僕は酷く孤独を感じて自分はもう役に立たないと思い、とても寂しくなり、隣のリンゴの木を見て彼が羨ましくなりました。 だって僕は彼のように甘くて美味しい実を結ぶことは出来ません。 僕は絶望し、弱り果て枯れ始めました」と松の木は答えました。 「そうだったのか!それは、可哀想に、私は遠く離れていても、ずっと君を思い愛し続けていたのだよ」と王様は松の木に答えました。

    次に王様は、半分枯れかけているリンゴの木と出会ってその理由を尋ねました。 「王様が僕に会いに来て下さらないのに耐えられなくて、僕は自分の内に閉じこもりました。 そして段々他の木々や花々や植物と自分とを比べ始めました。 あそこの垣根の薔薇を見て、僕はあの薔薇のような芳しい香りと美しさを持っていないことに気が付きました。 その時から僕は自信をなくして弱り枯れ始めました」とリンゴの木は答えました。 「そうだったのか!それは可哀想に、私はあなたの傍にいなくても、ずっとあなたの良い香りを思いだして、あなたを愛し続けていたのだよ」と王様はリンゴの木に答えました

   垣根の薔薇も変化し、衰弱し始めていたので、王様はその理由を聞こうとしました。 「長い間私たちは、王様の優しい声も、元気付ける言葉も聞きませんでした。 そして王様が毛虫の害から私たちを守って下さらなかったので、私たちは毛虫に食べられて、とても弱くなりました。 なぜ私たちは、あそこにあるモミジの木のようになれないのかと疑問に思いました。 モミジの木は、秋になると葉がとても綺麗に紅葉します。 しかし、私たちは秋になっても葉は紅葉しません、それどころか葉を失ってしまいます。 強い風が吹くと私たちの細い枝は折れてしまいますが、あの松の木は全く害を受けません。 私たちの小さな棘も毛虫には何の役にも立たないので、毛虫の群れは私たちの新しい柔らかい葉を食べてしまいます。 ですから、私たちはどうして生き続けることが出来るでしょうか。 死ぬ方がましだと思って、枯れ始めました」と垣根の薔薇は答えました。 「そうだったのか!それは可哀想に、私はたとえ他の事で忙しくなっても、あなたたちを一度も忘れることがありませんでした。 それどころか、心配してどれほど私はあなたたちの傍に早く帰りたいと考えたでしょうか。」と王様は垣根の薔薇に答えました。

    全ての木々や花々や植物たちが、衰弱し始めた庭園をとぼとぼと歩きながら、王様はとても美しく生き生きとしている小さな花を見つけました。 王様は「どうしてこんなに元気に咲いているのですか?」とその小さな花に尋ねました。 「王様がお留守だった時に、私は色々と考えました。 私はあそこで堂々とそびえ立つ松の木やリンゴの木の甘い実、或いは垣根の薔薇の芳しい香りやモミジの木の燃える紅葉の色も決して持つことは出来ません。 しかし、この庭園を設計した王様がもし私を必要としないのなら、私の代わりに他の花をこの場所に植えて、その花の存在を楽しんでいたでしょう。 しかし王様は、私をわざわざここに植えて下さって、私を見てとても喜んで下さいますので、私はこの場所でありのままに、王様のために精一杯美しく咲くように努力しようと決心しました」と生き生きとした小さな花は元気に答えました。 「ありがとう、私の愛する小さなお花さん。 私は何てしあわせなのでしょう。」と王様は嬉しくなって、涙を流しながら小さな花に答えました。

    この王様のように、深い愛を持った王である神はこの地球の庭園の中で、私たち一人ひとりの場所と役割を決めました。 神は毎日私たちの手入れをなさるのですが、時々私たちは「神が遠くにおられる」とか「神が自分を忘れた」と感じて、自分の内に閉じこもります。 そして、寂しさの余り私たちは他の人の幸せを見て、彼らと自分を比較します。 比較することは、毒を飲むことと同じことです。 他者と自分を比べる人は、あっと言う間に自分の心の中に、嫉妬や恨み、あるいは高慢や軽蔑が芽生えることを感じているのです。 比較の誘惑に陥らずに、ただ神は世を造る前に私たちが存在することを望まれたことを考えましょう。 神の目には私たちが尊い者だから、神は絶えず私たちを愛し、祝福し守られることを信じて、ありのままに神の為にも他の人の為にも、精一杯生きて心から溢れる喜びに感謝しましょう。 そうすれば、きっと私たちのすぐ傍におられる神の現存とその揺るぎない愛を深く感じて味わうことが出来るでしょう。


ニンジンと卵とコーヒー豆

    ある若い婦人が日常の家事や子供の教育、思いがけない出来事や次から次へと起こる問題のせいで疲れ果て、絶望の淵に落ち込みました。 彼女は自分の母の所へ行って「一つの問題が解訣すれば、すぐ新しい問題が襲い掛かって来ます。 私にはもう生きていく力がありません」と泣きじゃくりながら声を詰まらせて、心の悩みをすべて打ち明けました。

    彼女の悩みを聞いた母は、何も言わずに娘の手を取って台所へ連れていきました。 そして三つの鍋に水を入れて、鍋をガスコンロの上に置いてガスを付けました。 水が沸騰し始めた時に、母親は最初の鍋にニンジンを、二つ目の鍋に卵を、三つ目の鍋に粉にしたコーヒー豆を入れました。 そして、何も言わずに二十分待ってから、母親は一つの皿に煮たニンジンをもう一つの皿に茹でた卵を入れ、出来たコーヒーを深いカップに注ぎました。 そして、娘に向かって「ここに何が見えますか?」と尋ねました。 彼女はすぐに「煮たニンジンとゆで卵と香り高いコーヒーです」と答えました。

    そして母親はお皿の中に置いてあるニンジンを触るように娘に言いました。 母親が「何を感じましたか?」と尋ねると、娘は「このニンジンはとても柔らかい、ふわふわしています」と答えました。 次に母親は「卵を取って割ってください」と娘に言いました。 彼女は卵の殻を簡単に割りましたが、卵の身が堅くなっていることに気が付きました。 最後に、母親は娘にコーヒーを味わうように言いました。 彼女はコーヒーを飲み味わいました。 「このコーヒーはとてもおいしいです。ところでお母さん、どうしてこんなことを私にさせるのですか。教えてください。」と尋ねました。

    「では、よく聴いて下さい。 ニンジンも卵もコーヒー豆も同じお湯の中に置かれても、それぞれのものはお湯に対して違った反応を示しました。 堅くて強いニンジンは、お湯の中で柔らかくなり、ふわふわしています。 結局、強いニンジンはお湯の試練を受けて、とても弱くなりました。 ところが、殻が壊れやすく、中身の流れやすい卵は、お湯の試練を受けて、卵の中身は堅くなりました。 そして、粉にしたコーヒー豆は、同じお湯の試練を受けながら、お湯を変化させて、とてもおいしい風味のある飲み物を作り上げました。 ですから、試練や思いかけない問題が襲い掛かる時に、柔らかいニンジンや固くなった卵でなく、あなたは美味しい風味を生み出すことが出来た、この粉にしたコーヒー豆のようになって欲しいのです」と母親は、真剣に娘に話ました。

    私の書いたこの物語を読むあなたにも、この母親と同じ質問をします。 あなたはニンジンのように、外面的に強くて自信のある人だと思われているかも知れませんが、苦しみや試練があなたに襲いかかるとあっと言う間に、あなたは力と希望を失う人ではないでしょうか。 あるいは、あなたは壊れやすい卵のように、傷つきやすく弱い人だと思われているかも知れませんが、問題にぶつかると外面的にも内面的にも頑なで強情な人や頑固な人に変化していないでしょうか。 或いはもしかすると、あなたはこの話のコーヒー豆のような人でしょうか? もしあなたがコーヒー豆のような人であるなら、きっと自分の苦しみや周りの悪い状況を変えることが出来、あなたは自分の良さと素晴らしさを大勢の人の喜びのために発揮できるでしょう。 そうであるならば、神に感謝しなさい。

    私たちが自分の素晴らしさを発揮するために、イエスは私たちに聖霊の力を豊かに与えてくださいました。 「わたしの恵みはあなたに十分です」とイエスは一人ひとりに言っています。 試練の中に置かれているキリスト者は、自分の弱さの内に神の力を体験する人です。 「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのです。 ですから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 わたしは弱いときにこそ強いです」(2コリント12,9-10)と聖パウロは体験に基づいて教えています。 従って、私たちも試練や不幸や思いがけない問題に直面して、嘆きや不満や不平を言わずに、むしろ神の恵みによって、喜んで自分の内にある聖霊の力を発揮して体験しましょう。



年寄りの勇太郎

  ある小教区の神父は不安を抱いて、事務員の人に次のように打ち明けました。 「最近、この何週間かの間、ボロボロで汚れた服を着て、毎日、ちょうど十二時に、この教会を訪れている一人の年寄りがいます。 彼は祭壇まで行って、直ぐに帰ります。 その態度が変だと思いますので、暫く彼を監視して貰えませんか。 もしかすると、彼は何かを盗もうとしているのか、あるいは何かを壊そうとしているのかも知れませんので、できれば彼と出会って、詳しく彼に尋ねてください。 お願いします。」

  翌日から一週間に渡って、事務員はこの変な老人の態度と動きを確かめました。 確かに彼は毎日、十二時に教会に入り、祭壇の前に行き、そして一分程経つとお御堂から出て来ます。 ある日、事務員は彼に尋ねました。 「こんにちは。 あなたはこの教会の信者の中で最も忠実な人でしょう。 なぜなら毎日教会にいらっしゃいますから…。 しかしここに来ても直ぐに帰られますが、いったい何をする為に来られるのですか?」と。 「私は祈りに来ます」と老人は答えました。 「えっ、そうですか? あなたの祈りは短すぎるのではないでしょうか?」。 「はい、確かに私は長く祈りません。 毎日、ちょうど十二時にお御堂に入り、イエスに次のように言うだけです。 『こんにちはイエス様! 勇太郎君です』と、そこで他の言葉を加えずに、一分間位待ってから帰ります。 この祈りは短いかも知れませんが、きっとイエス様はこの祈りを聞き入れて下さるでしょう、と私は信じています」と。

   そんなある日、教会を出た途端、あの年寄りは大きなトラックに飛ばされました。  彼は重態の状態で近くの病院に運ばれました。 レントゲン写真には彼の体の骨折した多くの骨が写っていました。 勇太郎お爺さんはずっとベッドに寝かされました。 ご存知のように、入院している患者は、苛立って、不満や不平を言う習慣があります。 確かに医者や看護師たちは「呼んでも、中々来ない」とか「病院の食事は美味しくなくて、量が足りない」とか「早く退院させてください」とか、等々の文句を聞くのは慣れています。 ところがこの年寄りの勇太郎はいつもニコニコしていて、体全体の痛みにも拘らず、一度も彼の口からは文句が出ませんでした。 むしろ彼は皆と一緒に励ましの言葉を語り、周りの患者が言いたいことや文句や苦情に耳を傾けて、誰であろうと皆を大切にしていました。

  それを不思議に思って、ある看護師は年寄りに尋ねました。 「あなたはいつも幸せそうですね。 なぜでしょう? 体の様々な傷と骨折のせいで苦しんでいるのに!」と。 彼はすぐに答えました。 「だって、その日、その日、毎日、お見舞に来る人が私の傍に来て、私に幸せをいっぱい与えるのです。」 それを聞いて、驚いた看護師は尋ねました。 「えっえ? そうですか? 今まで、あなたをお見舞いに来た人は誰もいませんし、あなたには家族も親戚の方も、また友達もいないのではないですか? あなたは朝から晩まで、いつも一人で居るでしょ? いったい誰が、いつ、あなたを訪れるのですか?」 「毎日、ちょうど十二時に。 彼は私のベッドのすぐ傍に来て、微笑みながら私に『こんにちは勇太郎君、イエスです』と言ってから直ぐに帰ります。」と、老人が喜びに溢れて答えました。

  皆さん、この勇太郎お爺さんに倣って、私たちもイエスとの出会いの時を持ち、短くてもその時に対して忠実であるように務めましょう。 「あなたを「しもべ」ではなく、「友」と呼ぶ」(ヨハネ15,15)とイエスは私たちに教えました。 愛をもって、キリストと親しく話し合って、生きる望みやキリストを見て、色々と分かち合いたい希望を育てて、彼の愛する友として、毎日決めた時に、その出会いの素晴らしさを深く味わいましょう。 イエスは必ず会う約束を守ります。 イエスが望むのは、長い祈りではなく、心の愛の飛躍と愛の叫びを待ち望んでおられます。 キリストのために死ぬことは素晴らしいことですが、キリストと共に生きることは遥かにもっと素晴らしいことです。 同時にキリストへの信仰の内に死ぬことは望ましいことですが、キリストに生きることはもっと好ましいことです。 しかしそれが出来るためには、私たちが毎日、忠実に決めた時にイエスと出会うことが必要です。 有名な聖人の体験によると、決めた時に祈る人は神と隣人への愛に対して飛躍的に成長します。



ヤナギの枝で編んだ籠

   山間の村の小さな木造の家に一人の老人が小学生の孫と一緒に住んでいました。 毎朝起きるとこの老人は聖書の身近な個所を読み、黙想する習慣がありました。 お祖父さんがとても愛している孫は、彼をよく見てその行いを真似る事が大好きでした。 ある日この孫は、お祖父さんのように聖書を読もうと決めました。 一週間経って、孫はお祖父さんに次のように打ち明けました。 「祖父さん、あなたのように聖書を読もうとしましたが、僕は書いてあることが殆ど解かりませんし、少し理解出来ても暫く経つとそれを忘れてしまいます。 ですから、もう聖書を読むことは止めようと思います。 何故なら聖書を読んでも何の利益もないと解かりましたから。」

   すると、お祖父さんは直ぐに、石炭の入った大きなヤナギの枝で編んだ籠を空にして、慈しみの眼差しを注ぎながら孫の手にそれを渡しました。 「さあ、今から家の近くにある川まで行って、この籠に出来るだけ水をいっぱい汲んで、持って帰ってきなさい」と老人が言いました。 孫はお祖父さんの言う通りにしましたが、川の水を入れる度に、その水は籠から直ぐ出てしまいました。 孫がお祖父さんにこのことを説明すると、お祖父さんは孫に「あなたは走るのが遅すぎるのです。 もっと速く走ってご覧なさい。」と答えました。 孫は何回も何回も努力しました。 しかし、いくら速く走っても籠はいつも空っぽでした。 一生懸命に籠に水を汲んで息が切れた孫は「お祖父さん、お祖父さんに頼まれたことは僕には無理です。 この籠は全く役に立ちません。 僕にバケツをください」と願いました。

   「いいえ、バケツを使ってはいけません。 私は君がこの籠に出来るだけたくさんの水を入れて欲しいのです。 さあ、諦めずにもう一度川へ行きなさい。 失敗は必ず成功へのチャンスを与えますから」と老人は答えました。 孫は言われた通りにしましたが、やはりお祖父さんの家まで戻ると籠はまた空っぽでした。 「見て下さい。 お祖父さん。 どうやっても無理です。 こんなに速く走って帰って来たのに!」と孫は叫びました。 「君自身こそが、よく見なさい」と老人は言い返しました。 「さあ、この籠をよく見てご覧なさい。 前に入っていた石炭のせいで籠は真っ黒でとても汚いでした。 でも今は、こんなに綺麗になっています」と老人が言いました。 孫は自分の努力で籠が綺麗になったのを見てびっくりしました。 そこで老人は孫に説明しました。

   「聖書を読む時にも同じことが起こっています。 君が理解してもしなくても、内容を覚えていてもいなくても、聖書を読み、黙想する度に君が知らない間に、君の魂がとても美しくなります。 確かなことは、必ず変わるのは君の魂です」と老人は孫に説明しました。 その日から二人は心を合わせて一緒に毎朝聖書を読むことにしました。 そして孫が理解出来ないところは、お祖父さんが優しく説明してあげました。

  人間の古代の文明や歴史を通して、神は聖書の中で私たちの心に語ります。 しかし、ヘブライ語とギリシャ語で書かれた聖書は、日本語になると決して理解しやすい書物ではありません。 古代の人々の考えや文化、世界観や宇宙万物に対する理解などは、現代人である私たちの考えや文化、物事への理解と非常に異なっています。 そういう理由で、人は聖書を読むことを簡単に諦めます。 しかし聖書は神の言葉です。 優しい父として神は、聖書を通してご自分の心を開き、打ち明けながら私たちの心を開きたいのです。 それはその中に、ご自分の限りない愛と聖霊の叡智を豊かに注ぐためです。 あなたの永遠の幸せを望まれる神に、あなたの心を閉じてはいけません。 むしろ、神の言葉と教えに親しむために忍耐をもって聖書を読むことによって、あなたにとって聖書が掛け替えの無い大切な書物となりますように。 この物語の石炭の籠のように、あなたの全てが神のみ言葉によって清められ、変容させられ、聖とされますように。




プラスチックの食器

    男やもめになって、一人で生活が出来ず、老人ホームに入るお金もない年老いた男が自分の長男と彼の妻そして6歳の孫の家に住むことになりました。 この老父は、目が悪くて上手に歩けないし、その上パーキンソン病のために手がずっと震えていました。 長男の家では、皆で一緒に食事をとる習慣がありましたが、この老父にとってそれは苦行でした。 と言うのは、パーキンソン病なので、彼は食べ物を落としてテーブルに散らかし、何かを飲むたびにグラスをひっくり返して、床に落とし割ることが多かったからです。 更に自分の顎に全く合わない入れ歯であった為に食べるたびに嫌な音を出していました。

    時が経つにつれ老父の長男の妻は、壊れた物の山や汚くなった自分の家を見て段々と苛立つようになりました。 長男は父に対する尊敬を失わないために、色々と考えましたが、妻の怒りに負けてしまいました。 「お祖父さんともう二度と一緒に食事しないこと、そしてお皿を壊さないように、全ての料理をプラスチックの食器で出すことにしよう」と長男は決めました。 その日から老父は、部屋の片隅で1人で食事を食べ、別の所では長男と妻と孫が食卓を囲んでいました。 それにもかかわらず、老人は自分のスプーンやパンやナイフなどを落とし続けました。 それを見て孫が急いでそれらを拾って、よく拭いてからお祖父さんに渡していました。

    食事をしながら6歳の孫は、部屋の片隅で一人ぼっちになったお祖父さんの様子をじっと見ていました。 ある日、彼はお祖父さんの目から涙が流れ出ていることに気づきました。 孫は何も言わずにある決心をしました。 仕事から帰った父は息子が何かを書いているのに注目しました。 「何を書いているの?」と聞きました。 子供は小さな声で次のように答えました。 「ぼくは神様に手紙を書いています。 お父さんとお母さんが年寄りになった時に、食べる為の二つのプラスチックの食器を送ってください、と書きました。 そしてプラスチックのスプーンとナイフとコップも頼みました! だからパパ、心配しないでね。 僕は、お父さんとお母さんの未来を考えてきちんと準備しますから!」と。

    これを聞いた途端ショックを受けた父は、自分の妻と相談しました。 彼らのするべきことがよく分かりました。 この夜からずっと毎日、お祖父さんは皆と一緒に食卓を囲んで食事を楽しくいただきました。 すると魔法にかけられたように、その後はプラスチックの食器は消えました。 勿論、以前のようにお祖父さんは食べながら音をたてたり、食べ物をこぼしたり、食器を壊したりしたことはありましたが、家族はそれを気に止めずに、ただお祖父さんが幸せであることだけを願って大切にしました。

    自分たちの幸せのために両親を老人ホームに入れる人が多いです。 パーキンソン病やアルツハイマー病にかかっている人の世話をすることは確かに難しいので、専門家に任せるのは論理的な解決です。 しかし、老人ホームや専門的な施設が、果たして家族が与える幸せを与えるでしょうか。 ある意味で年寄りたちを老人ホームに入れることは、彼らに「プラスチックの食器」を与えることに等しいです。 温かい家族の雰囲気を超えるものはありません。 家庭が持っている歴史や懐かしい思い出や笑い声の響き、また一緒に耐え忍んだ試練の苦しみや希望や助け合いが年寄りの心の宝物です。 誰にとっても、家族は故郷と同じようにかけがえのない、忘れられない貴重な宝物です。

    いつか、私たちも年寄りになったら、きっと孤独の生活を避けるように心血を注いで努力し、老人ホームに入らないように全ての可能性を探し求めるでしょう。 もし、あなたが今、年寄りで家族に囲まれて、元気で、愛されているなら、自分の残る日々を過ごす幸せをすぐに神に捧げて下さい。 そして、この状態が長く続くように切に、毎日、感謝しながら神に願って下さい。 さもないといつか「プラスチックの食器」が、あなたに与えられるかも知れません




タクシーの運転手と年寄りの女

   あるタクシーの運転手は次のように語ります。 「私がお客さんに呼ばれて教えられた場所に着いた時、クラクションを鳴らしました。 何分か待ってから、もう一度クラクションを鳴らしました。 その仕事はその日の最後の仕事だったので、お客さんが出て来ないので帰ろうと思いましたが、結局タクシーから降りて、家のドアをノックしました。 「少し待ってください」と年配の女性が答えました。 その時、彼女が家の中で何かを引っ張っている音を耳にしました。 長い間待った後、ようやくドアが開きました。 小さな旅行かばんを引っ張って、1940年代の素朴な服を着た90歳の年配の女性が私の目の前に現れました。 彼女の住んでいる部屋の中を見ると、とても寂しい 感じを受けました。 と言うのは、全ての道具が白い布で覆われていて、壁には大時計や、絵や写真など全くありませんでした。

  「タクシーまで私の旅行かばんを運んでくださいませんか?」と頼まれたので、私は彼女に腕を貸して、ゆっくりタクシーまで歩きました。 歩きながら彼女はずっと私の優しさと思いやりを褒めましたので、「お客様の願いを大切にするのは当然のことですよ。 特に年配の人は自分のお母さんのように扱います」と答えました。 「あなたはいい人ね」と彼女が答え、行きたい場所を私に伝えながら「町の中央を通って行って欲しいのです」と加えました。 「いいですが、それは一番早い道ではないですよ」と私は助言しました。 「はい、知っています。 でも私は今日、老人ホームに入るのでそんなに急ぎませんから…」と彼女は答えました。

   タクシーのバックミラーを見ると、彼女の目が輝いていることに気づきました。 「私はもう家族がいないし、医者によるともうそんなに長くないそうです」と彼女は言いました。 それを聞いて、私は密かにタクシーのメーターを止めました。 その後2時間位、私たちは町の中をあちらこちらへ行きました。 彼女は自分の小・中・高の学校や最初に秘書として働いた事務所の建物を見たり、結婚した時にご主人と共に暮らした家やまた土曜日の晩二人が踊った昔のダンスホールも見せるように私に願いました。 時々、彼女がゆっくり見たい場所の前で止まることも要求しました。 そこでは目に涙を浮かべながら、無言で、溜め息をついただけでした。

   夕暮れになった時、彼女は「疲れました!さあ、老人ホームまで連れて行ってください」と願いました。 示された住所まで沈黙の内に辿り着きました。 老人ホームの前で止まると、すぐ二人の看護師が私たちの方に近寄りました。 彼らはずっと前から彼女の到来を待っていたそうです。 しかし彼らは何一つ不満を言わずに、この老人に尊敬と優しい心遣いを表しました。 私はタクシーのトランクを開けて、彼女の旅行かばんを出した時には、彼女はすでに車椅子に座っていました。 自分のハンドバックを開けて彼女は「いくらお支払いすればよろしいでしょうか?」と聞きました。 「お代はいりません」と答えました。 「しかし、あなたは生活費を稼がなければなりません」と彼女は言い返しました。 「ご心配なく、まだ私は他のたくさんのお客様をタクシーに乗せますから」と言いながら何も考えずに、自然に私は彼女を腕に抱きました。 彼女も私を強く抱きしながら「心から感謝します。 あなたは年寄りの私に幸せと喜びの時間を与てくれたからです」。

   彼女と握手して「さよなら」と言って、自分のタクシーに戻りました。 彼女はその間に老人ホームに入りました。 きっと彼女の人生はここで終わるでしょうと思いました。 寂しくなって、その後私は他のお客さんを乗せるのを拒み、色々と考えました。 もし彼女がいらいらする忙しいすぎる運転手と出会ったなら、どうなっていたでしょうか? もし私が彼女の願いを無視していたのなら? またもし彼女を長く待たずに、もう一度クラクションを鳴らさずに出発していたなら?等々。 このような素晴らしい出会いはなかったでしょうと思います。 この老人の為に時間を尽くしたので、彼女はほんの少し幸せを味わったでしょう。 大切なのは大きな出来事ではなく、小さな心遣いです。 自分がしたいことや実現したい計画よりも、時々他の者のわがままな希望を叶える方がよいと知りましょう。 人は他の人が言った言葉や行った業は忘れますが、自分の人生に意味と値打ちを与えたことは決して忘れることが出来ません。



水売りの人の物語

    中国の水売りの人は、長い(さお)につり下げた二つの水がめを肩に乗せていました。  彼は毎日遠く離れた井戸に水を汲みに行き、水を汲む時間がなかった村の人々に自分が汲んで来た水を売る習慣がありました。 ところがに釣り下がっている一つの水がめが少し割れていたので、水売りの人が村に辿り着いた時には、水は半分しか残っていませんでした。 それにもかかわらず水売りの人は、毎日この二つの水がめで離れた井戸に水を汲みに行きました。

     そんな訳でいつも、割れ目のない水がめは、頼まれた仕事を完璧にできるので、非常に自慢していました。  しかし割れ目のある水がめは、頼まれた仕事の半分しかできないので、混乱して恥かしくなってしまいました。

     2年後のある日、井戸の石(ふちいし)に置かれていた割れ目のある水がめは、水売りの人に次のように言いました。 「勿体ない、本当に恥ずかしいです。 私は頼まれた仕事の半分しか出来ません。 私のせいであなたは苦労が増えるばかりです。 私は役に立たない、邪魔なものです」と。 すると直ぐに、水売りの人は、割れ目のある水がめに次のように答えました。 「とんでもない。 あなたはとても役に立つのです。  気が付きませんでしたか?井戸から村へ行く道に、あなたが釣り下がっている側のあの道端に、花がたくさん咲いていたではないですか? 反対側には、何も咲いていません。 私はあなたの割れ目を利用して、あの道端に花の種をまき散ました。 そしてあなたがそこを通り過ぎると、あなたの割れ目から花の種に必要な水が注がれました。 この割れ目こそが、あなたに光栄を与えるのです。 あなたのお蔭で村までの道はとても綺麗ですし、また村人があの花で花束を作れるでしょう! あなたが持っている割れ目なしには、このような素晴らしいことは、とても無理でした」と。

    この世では完璧な人は全くいません。 いくら人々が自分たちの強さや出来映えや才能を見せようとしても、皆が割れ目のある人であり、短所や欠点や癒されない傷を持っています。 皆の幸せの為に、それらを上手に利用しましょう。 もちろん自分たちの短所だけではなく、他者の欠点も上手に使って役に立つものと変化させるなら、これは知恵の道ではないでしょう。 無理に人々の完璧さを望むよりも、彼らの違いと短所を豊かなものとして良く見分けて、最もよい結果を引き出すためにそれらを利用しましょう。 神はいつも悪いものから善を引き出し、悪を利用して良い役に立つものへと変化させます。 このようにアダムとエヴァの罪のお陰で、神は私たちに救い主イエスを遣わされました。 神に倣って私たちも、聖霊の教え導きに従って、人々の失敗や過ち、癖や欠点などを喜びと幸せを生み出すものと変化させましょう。



(あやえ)お婆ちゃんのお誕生日

   綾恵お婆ちゃんは200キロ位離れた町に住んでいます。 明日は綾恵お婆ちゃんのお誕生日ですので、彼女の子供たちと孫たちは立派なお祝いをしようと色々と忙しく働きました。 綾恵お婆ちゃんの長男は、コックさんなので腕をふるって素晴らしいメニューを考え、彼女が大好きな料理と誕生日のケーキを作りました。 綾恵お婆ちゃんは、明日88歳になるので、全てが完璧であるように彼女の嫁は、特別に家を隅から隅まで綺麗に飾りました。 孫たちは、お婆ちゃんに渡す花束と乾杯の為のシャンパン、そしてお誕生日のプレセントを買いました。 食事のテーブルは新しいテーブルクロスと花で綺麗にデコレーションしました。 玄関には「綾恵お婆ちゃん万歳」と書いた横断幕を掛けました。 家族の中でピアノを弾ける者が、お婆ちゃんの大好きな歌をメドーレーに作って演奏する予定です。 ようやくすべての準備が整えられました。

   次の日、一番立派な服を着て皆が喜びに輝いて、幸せな誕生日の雰囲気を祝っています。 この誕生日パーティーは、本当に素晴らしいです。 しかし急に家族の一番ちびっ子が「ストップ!」と叫びました。 「ストップ! 綾恵お婆ちゃんを誘うことを忘れたのではないですか?」と。 どうして彼女を招くことを忘れたのかと皆が考え、急に悲嘆にくれ、落胆しました。

    私たちも、神なしにクリスマスパーティーをお祝いしないように気をつけましょう! いくらクリスマスが楽しく、家庭的な温かみのある祝いであっても、クリスマスは何よりも先ず、イエスの誕生日の祝い日です。 そのことを絶対に忘れないようにしましょう!



海のヒトデのたとえ話

    あるとても賢い博士が、毎日浜辺に座って色々と考え、本を読んだり、様々な出来事をノートに書くことが大好きでした。 ある日、海岸を散歩していた時、遠くで踊っているような人を見かけました。 近寄るとその人は青年でした、しかし彼は踊っていませんでした。 むしろ彼はあちらこちらでしゃがんだり、立ったりして、走しりながら海に何かを捨てていました。

    博士はこの青年に「いったい何をしているのですか?」と尋ねました。 青年は「海にこのヒトデを戻しています。 引き潮の時にこのヒトデを海に戻さなかったら、ヒトデは皆死んでしまうでしょう!」と答えました。 そこで博士は、海岸は何キロメートルもある上に、ヒトデの数も多い過ぎるので、青年がいくら苦労しても全てのヒトデを絶対救えないと、説明して青年を説得しようとしました。 博士の理論的な説明を敬意をもって聞いてから、青年はしゃがんで新しいヒトデを拾って、海に戻してから博士に答えました。 「勿論、僕は全てのヒトデを救えません。 あなたは正しいでしょう。 しかし、僕が今、海に戻したヒトデにとっては全く違います。 特に、このヒトデにとって海の水に戻ることは、復活のような出来事です」と。 そして青年は浜辺に残っていた数えきれないヒトデを拾って、一つまた一つと見つけたものを海に戻しました。

    この青年は、この世の出来事を前にして、何もしないで無関心でいるよりも、何とかして何かしょうと決めました。 それを理解した博士は、翌日、海にヒトデを戻す青年を手伝うために浜辺へ行きました。

    私たちも命の浜辺に死にそうな「ヒトデ」のような人々を探しに行って、愛の海に戻して、救うことが出来ます。 人生の遭難者は数えきれないかも分かりません。 しかしただ一人だけにでも救いの手を差し出すなら、きっと私たちの時代はとても優れたものになるでしょう。 クリスマスの時は、この目的を全人類に与えているのではないでしょうか。 私たちも救い主イエスを手伝って、人生の遭難者を救いに行って、神の愛の海に戻しましょう。



小石の実験

    小学校のある先生が子供たちの前で次の実験を行いました。 先生は四リットル位の広口ガラス瓶を自分の机に置きました。 そして、テニスボールの大きさの小石を、瓶がいっぱいになるまで、一つずつ瓶に入れ続けました。 それから子供たちの反応を見ながら、先生は皆に尋ねました。 「この瓶はいっぱいでしょうか?」 皆が声を合わせて「はい」と答えました。 そこで先生は砂利の袋を机の下から出して、その中身を小石の上に注いでから瓶をゆっくり振りました。 砂利が小石の間に入り込み、瓶の縁まで溢れました。 先生はもう一度子供たちに尋ねました。 「今度は、この瓶はいっぱいでしょうか?」。 一度騙された子供たちは黙っていましたが、一人の子供が勇気を出して小さな声で答えました「たぶん、いっぱいだと思います!」。

    ニコニコしながら先生は自分の机の下から、また新しい袋を出しました。 子供たちは口をボカンと開けて、目を大きく目開きました。 今度先生は小石と砂利の上に砂を入れました。 砂は小石と砂利の間に簡単に入り込みました。 三度目に先生が子供たちに「今度こそ、この瓶はいっぱいでしょうか?」と尋ねると 皆は、先生の策略を理解して、大きな声で「いいえ」と答えました。 「えっ?そうですか…」と言いながら先生は今度も自分の机の下から大型の水差しを出し、水を瓶の縁まで注ぎ入れました。

    そして子供たちを見つめながら先生は「この実験によって皆さんは何がわかりましたか? どんな大切なことを理解しましたか?」と質問しました。 「大きな瓶があれば、中に何でも入れるでしょう」とある生徒が言いました。するともう一人の生徒が答えました。 「先生の手帳に書かれたスケジュールがいくらいっぱいだと思っても、新しい約束や出会いを、また何か加えることが出来ます。」 すると先生は「いいえ、そうではありません」とすぐに答えました。 「この実験は非常に大切なことを教えています。 ちょうど大きな箱の中に小さな箱を入れることが出来るように、もしこの瓶に先ず最初に小石を入れなければ、後からはこの小石を瓶に入れることは不可能です」と。

    続いて先生は聞きました「この小石のように、皆さんにとって人生の中で最も大切なものはなんでしょうか?」。  同じ質問をイエスは私たちに聞きます。 私たちの人生の中で最も大切なものは一体なんでしょうか? 神との関係でしょうか? 一日の中で祈りの占める場所でしょうか? 他人への思いやりと世話でしょうか? 自分の仕事と健康でしょうか? 家族や友達との繋がりでしょうか? など、など…。

    例えば、ある信者たちが教会に来るたびに神に当然の挨拶(短い祈り)をせずに、すぐに他の信者としゃべる過ちを犯しています。 他のキリスト者はさまざまの事で忙しくなって、色々と悩み、苛立って不平や不満の言葉を言いがちです。 勿論そういう人たちは祈る時間を見付けない人です。 他のキリスト者は、赦しの恵みを避ける為、あるいは口喧嘩をした人と出会わないように、必ず、何か言い訳を見つけるのです。 同様にある信者は、日曜日のミサ祭儀に参加しないための正当な理由がないので、自分の子供の学校活動のせいにし、または他のつまらない理由を想像し考えます。 更に、他者の小さな欠点や短所や欠如を見つめ続けるキリスト者は、決してその人々の優れた性質や長所や美点を発見することはできません。

   もし私たちが自分の人生のあらゆる面で、神を第一にしないのなら、出来事は小さくても、必ず消え失せるつまらないことや流れていく物事が、すべての場所を取る砂利、砂、水のように私たちの人生を満たすので、絶対にもっと重大で大切なものを受け入れることは不可能です。 私たちが値打ちのない物事に第一の場所を与えるなら、値打ちのあるもの、永遠に残るものを受け取る場所を失います。




 開花するか? 実を結ぶか?

    
昨日まで小さな蕾であったにもかかわらず、今朝香り高い、美しいバラになりました。  そして数日後、暫く美しい花を開花させて、その後バラはゆっくり新鮮さをなくし、やがて枯れてしまうでしょう。 もしこのバラが開花していた時に、誰も写真を取らないのなら、この花の美しさを思い起こすものは全く何も残りません。

    美しいバラの安全な成長のために、適当な肥料、季節の風や雨や太陽、そして特に植木屋さんの手入れが必要不です。 同様に、人が安全に、美しく成長するために、幼い時から良い教育の肥料、試練の風、思いがけない出来事の雨、他の人の助けやお教え導きという手入れを受けることが必要です。 それなしに人生のあらゆる面で、決して人は立派に開花できません。幼い時から夢を抱きながら、人が一人では何も出来ないことを体験することによって美しく開花します。 様々な人からいただく手入れや助けや慰めや勧めを自分の人生の土台にして、人は立派な大人になり、社会の中で自然に目立つ良い影響を与える人になります。 このように自分の未来を築いている人は、次の時代の人々に何か役に立つものを残すように努めるので、必ず豊かな実を結びます。 と言うのは、立派に開花することだけでは足りないからです。 自分の種を作らない花は、実を結ばずに完全に消えます。 同様に人生のあらゆる面で、色んな風に開花した人は、もし実を結んでいないなら、彼の人生は残念なことに無意味です。

    聖書の中でイエスは「実を結ぶ」必要性について何度も語っています。 「実を結ばない木は切り落とされる」(マタイ7,19)とか「永遠に残る実を結ぶこと」(ヨハネ15.16)などと言う言葉が度々イエスの口から出てきます。 確かに、生まれた日から私たちは死に向かって進んで行き、年を取ると花のようにいつか新鮮さをなくし、枯れてしまうでしょう。 バラが美しく咲くためには、植木屋の手入れを受けなければなりません。 彼はバラの木を毛虫から守りながら、余分な葉をはずし、伸び過ぎた枝を切り落とします。  私たちも美しい人生を送るために、手入れを上手になさる神に自分のすべてを委ねることが肝心で大事だと信じます。 神は愛をもって、悪の攻撃から私たちを守り、豊かに実を結ぶように、私たちの霊的な成長を妨げる余分なものを除きます。 と言うのはこの余分なものは、私たちの心と魂に根を下ろし、伸びながら私たちの人間性を覆いふさいで滅ぼそうとするからです。

   大自然の中にあるもので生き残るために必要なのは花ではなく、花が作る種や実です。 花は自分を支える茎に終わりまで繋がったままでいます。 種は地に落ちて新しい命を生み出し、実は支えの枝から自然に離れ、人を養います。 ある意味で開花した花は、ただ自分の為にだけ生きいています。 しかし、種や実は何かを生み出し、誰かを生かすために自分を捧げています。 ある人はすべてが自分の満足感を満たさなければならないと思い込んでいるので、それが出来ない時に、その人は平気で自殺します。 ただ自分の為だけに生きようとする人は、あらゆる面で上手に開花していても、他の人のために実を結ばない限り、いつか不幸がその人に近寄って来るのです。 この生き方は花のように長く続かないので、遅かれ早かれ、消え失せるのです。 真の開花を実現した人は、生きることも、死ぬことも恐れていません。 その人は「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12,24)ことをよく知っています。

   「自分の命を愛すること」は、自分のためにだけ開花することです。 「自分の命を憎むこと」は、他の人々のために生き、開花し、実を結ぶことです。 私たちは皆、残る実を結ぶことが出来るように、大勢の人々のために美しく開花し、自分自身を与え尽くすことによって、豊かに生きていきましょう。



安全第一の社会を信じる

   先日、フランスのニュースレターにこの様なことが書かれていました。

   195060年代に生まれたあなたは、どのようにして生き残ることが出来たのか? 今、あの頃を思い出すと、よく今まで生きていたと不思議に思いませんか? 車には、安全ベルトやエアーバッグはありませんでした。 しかし、危険を意識することなく後部座席でガヤガヤと笑って遊んでいたのではないでしょうか? ヘルメットをせずに、バイクや自転車にも乗っていました。 殺菌された清潔なペットボトルに入ったミネラルウォーターではなく、水まきホースや泉から直接に水を飲んでいました。 夜までに家に戻るという条件なら、遅くまで外で遊び続けても許されました。 携帯電話がなかったので親は子供がどこに居るのか、また何をしているのか、知るすべがありませんでした。 現在ではとても信じられないことです。 喧嘩をしてすり傷だらけになっても、責任を他人になすり付けたりせず、自分自身が悪いということになっていました。 甘いジャムやバターがたっぷりの薄切りのパンを、いくらかき込んでも肥満の心配で誰も悩んでいませんでした。 いつも外で運動して、細菌が移るのを恐れることなどなく、同じオレンジジュースのボトルを23人で回し飲みをしていました。 あの頃はプレイステーションや任天堂64などのビデオゲームやアイパッドやコンピューターのチャットなどありませんでした。 しかし、本当の友達が数人いました。 予告しなくても友達の家に飛び込んで、彼を遊びに引っ張り出しても大丈夫でした。 外!それは本当に危険に満ちた外でした…しかも監視なしで! 隣の空き地で仲間が集まってサッカーの試合をする時は、自分が選抜されなかったからといって、別に心の深い傷があった訳ではありません。 偶々、学校で自分が留年となった時でも、カウンセリングに連れて行かれなくても事が済んでいました。 あの頃、私たちには自由があり、失敗も成功もあり、宿題と課題があった…が、これらのすべてを当然と受け止め、それらを抱えながら生活していました。 今考えてみればよく生き残れた、よく成長できたと思います!  私たちのことは、今の世代からすると、とんでもない退屈な人生を送っていたと思われるでしょう。 もしかするとそうであるかも知れませんが、凄く幸せだったと思いません? 」

   これを読んで、フランス、ヨーロッパで日本並みの衛生の念が深まり、また「危ない!」「やめなさい!」と我が子の安全を神経質になって言う過保護のお母さんは、日本だけでなく他の国にも増えたという風に思いました。 世界中に広まっている、財産と生命のすべてが保証されている保険万能社会にあって、安全というものの価値は最大の善とされる傾向があります。 安全の保証政策や実施は、ある意味で大きな進歩と言い得ますが、あまりにも危険を恐れ、安全にこだわるならば、人々はかんじがらめになって身動きがとれなくなってしまう恐れがあります。 危ないからといって、外の遊びが許されていない子供って、なんて気の毒だとも思います。 チャレンジが許されず、様々な発達の可能性が閉ざされてしまう結果になるから…そして安全・安全と言って、財産や生命が保証されても、魂の命は必ずしも保証されているとは言えません。

   リスクに身をさらさずに、人間として充実して生きるということが有り得るでしょうか。 いつも身の安全を気にして、リスクの可能性を完全に排除しようとするならば、文化や経済をはじめ、人間の活動には発展性がなくなります。 起業精神か冒険精神が生きていなければ、社会は停滞してしまいます。 信仰もそうではないでしょうか?「信仰は賭けだ」とパスカルが言いました。 目に見えない神の手にすべてを委ね、自分自身を賭けるのは確かに危険な行為です。 目に見える世界の常識に安住した方が無難かも知れません。 しかし、この賭けを避け、安全地帯ばかりに留まろうとするならば、自分自身の命を失ってしまうかも知れません。 「自分の命を守ろうとする人は、それを失い、それを失う人は、かえって保つであろう」(ルカ17,33)。 このイエスの言葉には、福音の最も考えさせられるパラドックス(逆説)があるような気がします。



安全第一の社会を信じる

    先日、フランスのニュースレターにこの様なことが書かれていました。

    195060年代に生まれたあなたは、どのようにして生き残ることが出来たのか? 今、あの頃を思い出すと、よく今まで生きていたと不思議に思いませんか? 車には、安全ベルトやエアーバッグはありませんでした。 しかし、危険を意識することなく後部座席でガヤガヤと笑って遊んでいたのではないでしょうか? ヘルメットをせずに、バイクや自転車にも乗っていました。 殺菌された清潔なペットボトルに入ったミネラルウォーターではなく、水まきホースや泉から直接に水を飲んでいました。 夜までに家に戻るという条件なら、遅くまで外で遊び続けても許されました。 携帯電話がなかったので親は子供がどこに居るのか、また何をしているのか、知るすべがありませんでした。 現在ではとても信じられないことです。 喧嘩をしてすり傷だらけになっても、責任を他人になすり付けたりせず、自分自身が悪いということになっていました。 甘いジャムやバターがたっぷりの薄切りのパンを、いくらかき込んでも肥満の心配で誰も悩んでいませんでした。 いつも外で運動して、細菌が移るのを恐れることなどなく、同じオレンジジュースのボトルを23人で回し飲みをしていました。 あの頃はプレイステーションや任天堂64などのビデオゲームやアイパッドやコンピューターのチャットなどありませんでした。 しかし、本当の友達が数人いました。 予告しなくても友達の家に飛び込んで、彼を遊びに引っ張り出しても大丈夫でした。 外!それは本当に危険に満ちた外でした…しかも監視なしで! 隣の空き地で仲間が集まってサッカーの試合をする時は、自分が選抜されなかったからといって、別に心の深い傷があった訳ではありません。 偶々、学校で自分が留年となった時でも、カウンセリングに連れて行かれなくても事が済んでいました。 あの頃、私たちには自由があり、失敗も成功もあり、宿題と課題があった…が、これらのすべてを当然と受け止め、それらを抱えながら生活していました。 今考えてみればよく生き残れた、よく成長できたと思います!  私たちのことは、今の世代からすると、とんでもない退屈な人生を送っていたと思われるでしょう。 もしかするとそうであるかも知れませんが、凄く幸せだったと思いません? 」

    これを読んで、フランス、ヨーロッパで日本並みの衛生の念が深まり、また「危ない!」「やめなさい!」と我が子の安全を神経質になって言う過保護のお母さんは、日本だけでなく他の国にも増えたという風に思いました。 世界中に広まっている、財産と生命のすべてが保証されている保険万能社会にあって、安全というものの価値は最大の善とされる傾向があります。 安全の保証政策や実施は、ある意味で大きな進歩と言い得ますが、あまりにも危険を恐れ、安全にこだわるならば、人々はかんじがらめになって身動きがとれなくなってしまう恐れがあります。 危ないからといって、外の遊びが許されていない子供って、なんて気の毒だとも思います。 チャレンジが許されず、様々な発達の可能性が閉ざされてしまう結果になるから…そして安全・安全と言って、財産や生命が保証されても、魂の命は必ずしも保証されているとは言えません。

    リスクに身をさらさずに、人間として充実して生きるということが有り得るでしょうか。 いつも身の安全を気にして、リスクの可能性を完全に排除しようとするならば、文化や経済をはじめ、人間の活動には発展性がなくなります。 起業精神か冒険精神が生きていなければ、社会は停滞してしまいます。 信仰もそうではないでしょうか?「信仰は賭けだ」とパスカルが言いました。 目に見えない神の手にすべてを委ね、自分自身を賭けるのは確かに危険な行為です。 目に見える世界の常識に安住した方が無難かも知れません。 しかし、この賭けを避け、安全地帯ばかりに留まろうとするならば、自分自身の命を失ってしまうかも知れません。 「自分の命を守ろうとする人は、それを失い、それを失う人は、かえって保つであろう」(ルカ17,33)。 このイエスの言葉には、福音の最も考えさせられるパラドックス(逆説)があるような気がします。



私たちはどんなキリスト者でしょうか?

   「何をしているのですか?」と聞かれた3人の石切り職人のストーリーをご存知でしょうか? 最初の人は、質問した人を見ずに、顔も上げずに、鏨(たがね)をつかんで石を砕きしながら「見ている通り僕は石を粉々にしているのさ!」と答えました。 次の職人は仕事を止めて、頭を挙げてから質問した人をじっと見つめました。 そして、ため息をつき着ながら「僕は、生活費を稼(かせ)ぐために頼まれた仕事をしているだけです!」と返事しました。 3番目の職人は立ち上がって、質問した人の手を強く握って、溢れる喜びに顔を輝かせながら「僕は、どんな世紀にも負けない美しいカテドラル(大聖堂)を作っているのです」と答え、熱心に仕事に戻りました。

    もし誰かが私たちに「どうしてキリスト者になりましたか?」と質問するなら、どのように答えるでしょうか? きっと数え切れない多くの信者は「両親の望みで幼い時から洗礼を受けました」とか「キリスト教は人間を尊敬し、谷間にある人や貧しい人を大切にするから」とか「ある人の勧めでイエス・キリストを信じるようになりましたが、今はまあまあだね!」とか答えるでしょう。 実は、こんな風に答える信者は信じてきたことを大切にし、それで満足しています。 しかし彼らは多分個人的にキリストと出会っていないし、自分の信仰を照らし、強め、証しするために、神の言葉を自分の日常生活の土台にしてないでしょう。 この種の信者が 第一の石切り職人によく似ています。

   他の大勢の信者は、2番目の石切り職人のように、教会が頼むことと自分の良心に従うことしか行いません。 教会の掃除、ミサの朗読、様々なグループの活動に参加します。 この種の信者がキリスト者になった理由は「天国へ行きたい」、「信仰を養いたい」、「キリストをもっと知りたい」、「人の役に立ちたい」などです。 彼らは正直な人です。 しかし、習慣的で伝統的な信者ですので、教会へ行くことを楽しみとして味わっています。  しかし自己満足で別に自分たちの信仰の現し方を変えるつもりはありません。 この種の信者たちは「今のまま、静かに、共同体に不和を持ち込まずに、皆と一緒に仲良くして生きていきたい!」と深く望んでいます。

    残っている信者は生憎、数が少ないですが、第三の石切り職人のように大きな希望を育てています。 自分たちの信仰を養い、強め、育てながら、彼らは神の国を作りたい人です。 「何とかして、キリストと一致して、聖人になりたい、神の為に命を捧げたい、イエスのように深く愛したい、主の救いをたくさんの人々に伝えたい、教会を生き生きさせたい」ということを目指しています。 彼らの種の信者の顔は信仰の喜びに輝いています。 後ろを見ずに、また過去の出来事を忘れて、彼らは明るい未来をかたち作り、良い結果を待ち望んでいます。 実に彼らは自分たちの為に生きるのではなく、キリストのために、キリストによって生きたい人です。 このような揺るぎない希望と明るい信仰を持つ人の証しは、キリストの傍に人々を集め、そして、どのような世紀にも負けない素晴らしい世界になります。

    さて、聖体拝領をする度に私たちは、聖霊の交わりの中で、確かに主キリストと共に一つの体、一つの心、一つの霊になります。 言い換えれば信仰の兄弟姉妹のために、私たちはキリストの現れです。 そうであるはずなのに、どうしてミサが終わった途端に私たちは自分のもとの姿に再び戻るのでしょうか? そう考えると「一体、どうして私たちはキリスト者になったのでしょう?」 神の秘跡の恵みを無駄にしていないでしょうか? 正直にこの問題について深く反省しましょう!



教会の典礼とお花

    どんな文明に属していても昔から人々は、神々に生贄(いけにえ)や供え物を捧げる時に、花でそれを飾っていました。例えば古代エジプト、メソポタミア、ギリシャとローマの典礼によると生贄となる牛やヤギ、他の動物などの首に奇麗な花の冠と長い花房が掛けられていました。ヨーロッパの宗教では、古代ギリシャとローマの伝統を守って、男性たちが担いで運ぶ信者たちの行列に先立つ聖人の像の前、あるいは司祭が持つ聖体顕示台の前には、少女たちが花びらを撒く習慣が今も続いています。またヨーロッパでは、昔から結婚式の時に花嫁の頭の上にオレンジの花の冠を乗せる習慣があって、現代ではそれは花嫁のブーケに変化しました。

    アジアの宗教を見れば(カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマー、ベトナム、フィリピン)カトリックや異教の信者たちは、捧げる祈りと共に供え物としていつも花と果物のプレゼントを伴います。ご存知のように、ハワイ島、タヒチ島、ニューカレドニア、オセアニアの多くの島の人々は歓迎と尊敬のしるしとして、観光客たちの首に奇麗な花の飾り(フラワーレイ)を掛けます。更にどこの国でも葬儀の際に、尊敬や愛や感謝の念を表す花を捧げるのは避けられない習慣です。

    ロマネスクとゴシック様式の聖堂の柱の上の部分(柱頭)と聖体拝領台は、いつも花房と木の葉っぱで飾られています。 キリストの墓を示す祭壇の中に殉教者の聖遺骨が入いているので、昔から祭壇の前に、また聖人の像の前にも花を捧げる習慣があります。第二ヴァチカン公会議から、日本の生け花の影響がヨーロッパの教会の典礼に及びました。しかし、大抵の聖堂が暗くて、大き過ぎるので、見えにくい花束や生け花を供える代わりに、信者たちはローソクを捧げることを好みました。というのは、朝から晩まで光り輝くローソクは、神の前で自分自身を表す役割です。仕事の為に教会から出ても、小さなローソクは 自分がずっと神の眼差しいのもとに留まることを示します。

    日本では、建物の構造や使っている材料の為に火事の危険性があるので、ヨーロッパの雰囲気を作れません。ですから、信者たちの現存を安全に示す為にローソクの代わりに、あちらこちらに花を捧げることになりました。このように花は、神に対して私たちの現存、歓迎、尊敬、愛と感謝を具体的に表します。祭壇の前に捧げられた花は、キリストの贖いの神秘への感謝を表し、マリアのイコンの前に私たちが死ぬ日まで母親の心で私たちを守り、私たちの為に執り成す聖母マリアへの感謝と信頼を表します。キリストの復活は私たちの信仰の土台と私たちの未来ですから、復活のローソクの前に共同体の希望と喜びを表す花が供えられています。同時にキリストと一致している私たちは、光の子としてこの世を照らす使命をも思い起こさせます。また神の言葉への歓迎と尊敬として朗読台の前にも、花が置がれています。そして私たちが洗礼によって神の命に与る者となったことを思い起こす為に、聖水の所にも花が置かれています。最後に教会を訪れるお客様への歓迎と尊敬のしるしとして、玄関も花で飾っています。

    ご存知のように、花は言葉を伝えます。教会の花が、私たちが神に言えないことを上手に神に伝えます。1時間しか教会で神と出会わない私たちの代わりに、聖堂の花は絶えず神に私たちの事を思い起こしながら、静かに、美しい姿で私たちの礼拝を丁寧に表しています。生花であろうと造花であろうと、花が神の栄光と私たちの愛を表すことを絶対に忘れないようにしましょう。



福音史家使徒ヨハネの数の使い方

    福音史家使徒ヨハネは、他の聖書の著者よりも数のシンボルをよく使いました。例えば、ヨハネは「2」を利用する時に いつも弟子たち(ヨハネ1,374020,421,2)や天使(ヨハネ20,12)、婦人たち(ヨハネ11,3)について語る為です。また、ヨハネは「5」という数を使うときに何か欠けていて、不完全なものについて語ります。五つのパン(ヨハネ6,9-13)、回廊に入る為の入り口の五つの門(ヨハネ5,2)、五人の夫(ヨハネ4,18)など。ヨハネにとっては「5」という数は 命,救い,癒しを与えることの出来ないモーセの律法の象徴です。ただイエスだけがすべてを完成します。

    特に、よく使われている「7」と「6」という数をどのようにヨハネが利用するかを見てみましょう。ご存知のように「7」という数は、幸福や聖霊の賜物や充満や完全や完璧を表します。例えば、ベトザタの池で癒された病人の話を見ると(ヨハネ5章)『良くなった』という言葉が7回、7回目には『完全に良くなった』と書かれています。生まれつきの盲人の話の中でも(ヨハネ9章)『目を開ける』という言い回しが7回、最後の行にまた『完全に目をあける』と書かれています。このようにしてヨハネは イエスが完全に病人を癒やした事を示します。

    更に、イエスが弟子達の足を洗う時(ヨハネ13章)、ヨハネは7回『洗う』という動詞を使い、最後に『洗ったものは全身清い』と結びます。また、復活の証人として、ラザロの話で(11章)『マルタ』の名は7回 現われ、トマの名も福音の終わりに7回書き記されています。「7」に反対する数は「6」です(7-1=6)。その数は、不幸や不完全、弱さ、罪と悪のシンボルです。このように、イエスが『6番目の時に(*1)』疲れています(ヨハネ4,6)。また、同じ時間ピラトに引き渡されました(ヨハネ19,14)。そこで、ヨハネは『自分の人間性を通して、イエスが傷つきやすい人だ』という事を現すために、わざと6回『この男』とピラトの口から言わせます。更に、カナの披露宴の話だと、ユダヤ人のために整えた『清めの水がめ」が6つあります。この清めのやり方が不完全ですから、どうしても『洗礼と赦しの恵みによって』取り替える必要性があるとヨハネが説明しようとします。同様に、イエスの生涯の流れは 6回ユダヤ教の大事な祭り(*2)で囲まれています。それに対して、ヨハネは7回『復活祭』という新しい言葉を使います。ヨハネにとって復活の出来事の祝いがすべての祭りや喜びの日をはるかに超えているからです。

  このようにして、神へのユダヤ人の古い礼拝がキリスト教の礼拝によって取り替えられたとヨハネは説明します。言い換えれば、父なる神へのの『過ぎ越し』は キリスト自身とキリストの教会です。ヨハネの福音をゆっくり見ること、少しでも勉強することに、値打ちがあると思いませんか?



恐れから畏れへ、畏れから愛へ

    恐れはいつも人に生き残る力と工夫を与えます。 例えば糖尿病にかかっている人はその病気が悪化するのを恐れて,とても厳しい生き方の規則や食物に対する節制を選びます。運転免許を失う事がないように、運転手は交通違反と警察を恐れています。 とても役にたつこの恐れは 人に知恵や慎重さや賢明さを豊かに与えます。 確かに恐れは危険から人を守り、人の命を尊長し、従順と謙遜を教えます。このように人が知らないうちに恐れから畏れ敬う状態に移される可能性があります。

    聖ベネディクトによれば「神への愛は畏れを追い出します。」(戒津767節)。しかしこの世では 愛と尊敬の念を捨て 神も、警察も、法律も全く恐れない人々がいます。 彼らは自分の気持ちに従って 無頓着と不信心の人となり、愚かな生活を送る人になります。 私達は神と隣人への愛を実現しよとするので 聖ベネディクトの勧めに従います。 聖ベネディクトの勧める謙遜の道は 愛する事を妨げる恐れや心配や苦悶を簡単に追い払う解放の道です。

    聖書によれば「神を畏れることは知恵の初め」「箴言910」です。しかし普通、祈る時に神の前で自分の弱さと犯した罪のせいで人は自分が有罪であることを感じます。自分が神の愛に相応しくないと認める時、残念な事に人は神の現存を恐れて、神は厳しい審判者に変化します。 恐れは愛と信頼を奪いますから。 しかし、自分の惨めさを見ずに、神の慈しみについて考えるなら人は裁きを恐れずに神の憐れみに依り頼む知恵を受けます。この知識から神への畏れが生まれます。「憐れみは捌きを打ち勝ちます。」(ヤコブ213) やはり私達がいくら努力しても、またそれを強く望んでも神を愛していないことを正直に認めましょう。この知識は苦しみの中に謙遜の道を開き、そして私達は神に向かって自分の無力と悲嘆を叫ぶことが出来ます。「主よ、助けてください」と。

    聖ベネディクトにとって、愛の初めは苦悩の叫びです。「「主よ、助けてください。」と。なぜならこの叫びのお陰で 人が聖霊によって神の内に引き寄せられて、 キリストの愛の力がその人を包み、そして父なる神はご自分の慈しみを現すようになります。もし神を畏れる人が 以前に自分の空しさと直面して、神の現存を「避けられない咎めとして、自分を押しつぶし、とても圧迫するもの」として感じていたなら、最後には、その人は神の現存を「平和と憩いの場」として体験出来ます。苦悩の叫びを上げることによって、その人は謙遜の飛躍を受け、恐れから畏れへ移ることが出来、その結果、安らかにひとは神への道を歩むようになります。

    そして神を畏れ敬う人は、知らないうちに、神の愛に達して、神に生きるようになります。 彼は、以前は恐怖から遵守していたすべての事を、いかなる苦労もせず、あたかもそれが自然になされるかのように、習慣として守り始めます。 即ち、既に地獄に対する恐怖からではなく、キリストに対する愛、良い習慣,そして徳の実践がもたらす喜びの内に、それらを守ることになります。 結局「その人の命はキリストと共に、神の内に隠されています。」(コロサイ33)



信じる理由があるでしょうか?

    古代文化の神話によると、自分たちの世話をさせるために神々は人間を奴隷として造りました。その神々が自分たちの幸せのためだけに人間を利用し、彼らの運命を支配し、おもちゃのように人間を見下していました。ですから、神々に逆らう人間は永遠に続く恐ろしい罰を受けます。また、この神々は人間の全ての欠点を持って憎み合い、戦い合い、殺し合いまでしました。人間は自由になる為に神々と戦って、その支配を奪い取った後、神々の存在を忘れてしまい、やがて人間自身が神々のようになってしまい、神々なしに生きることを学びました。

    しかし神々なしに人は生きることが出来るでしょうか? 命、死、災い、疫病や宇宙万物の解決の出来ない問題に直面して、人は直ぐにそのことを神のせいにするか、或いは神の存在を完全に否定するかのどちらです。確かに、神の存在の有無を決める前に、人は何よりも先ず自分の人生の意味を理解しなければなりません。「人間がどこから来たのか?  どこへ行くのか?  どうして人間は苦しむのか、また死ぬのか?  など」大抵の人は宗教の内に満足する答えを見つけます。しかし、そこには神の存在を信じさせる証拠は全くありません。

    しかし、数え切れない小さなしるしが神の方向を指し示しています。これらのしるしを理解すればするほど、人が信仰に入るために大きな助けとなります。キリストと共に生きる信仰は、神と人間の一致を宣言するので、神の存在と人間の命に重大な意味を与えます。自分の人生の目的を探し求める人は、必ず神の存在についてその答えを見つけるのです。人は自分のために生きるのではなく、神のために、神の内に、神と共に生きるのです。人生の謎と宇宙万物の神秘を解説するためにキリストにおける信仰は一つの安全な道になっています。全ての被造物と世界の歴史の由来や目的を信仰者は神の内にあると教えます。信仰は強制的なものではありません。しかし信仰は論理的でないもの、常識的でないもの、意味のないものに対する強い城壁です。

    信じるためには自由が必要です。信仰は神の賜物です。人はそれを奪うことが出来ませんし、また神は決して強制的にその賜物を人に与えません。  信仰は人の選びの結果であり、神への信頼の内だけに人に与えられています。神に造られた人間は完全に自由です。神に向かって人は「あなたを信じない!」「あなたを要らない!」と言うことが言えるでしょう。特に無神論者の存在が、人は神なしに生きることが出来る、と言う事実を私たちに教えています。信仰に生きるために、人はそれを自由に選び、決断をしなければなりません。  そしてこの選びと決断を日常生活の出来事を通して、毎日新たにする必要があります。私たちキリスト者は、互いに自分たちの信仰を分かち合って、信者でない人々や他の宗教の人々と対話しながら、神の存在の証人となります。

     神を完全に知ることは出来ませんが、毎日自分の信仰を養うことによって人は神の神秘に生きることが出来ます。ここでも自由な選びと決意が必要です。神への愛の行いによって、人は日常生活の様々な問題に対して答えを簡単に見つけるのです。キリストにおける信仰は、人間を完成させる道を開き、人を神の似姿に形づくり、人々を美しい人生、幸せな人生、明るい人生へと変化させます。

    人は神なしでも生きることは出来ます。しかし人々のつながりを無視して、人々への信頼の絆なしでは決して生きることは出来ません。信仰は神と人々の間に強い絆を与えるのです。信仰によって人は神の前に自由な人間として立つことが出来、そして全ての人を自分の兄弟姉妹として受け入れます。さらに、信じる人は宇宙万物とすべての被造物と共に神を賛美し、礼拝します。なぜなら全世界は神の存在を示し、神の栄光を語っているからです。

    最後にこのことを忘れないようにしましょう。いくら人が一生懸命に神を探し求めても、神はもっと昔から、ずっと私たちを探し求め、呼びかけています。 「アダム、どこにいるのか?」「カイン、お前の弟アベルはどこにいるのか?」(創世記3,94,9)と。



神は願いを叶えるか、無視するか?

    「願いなさい、そうすれば与えられる」(マタイ7,7)とイエスは勧め、また「天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない」(マタイ7,11)とイエスは断言します。 しかし、自分のため、あるいは、他の人のために一生懸命に良いものを願って祈ったにもかかわらず、神が その祈りを叶えなかったことを 私たちは度々体験しています。 その時、自分の願いが具体的な効果を引き寄せなかった 悔しさと悲しさを感じるよりも 他人の苦しみの前で自分が全く無力であるという事実を 耐え忍ぶことが難しいです。 とても悲痛な状態に対する神のうわべだけの無関心は、あらゆる時代の人の疑問や怒りを生み出します。

    私たちにとって、神の全能と弱さは理解できない神秘です。 この神秘の前で、人は神に対して揺るぎない信頼を伴う疑いを持たない忠実さを示さなければなりません。 なぜなら、神は私たちの味方であり、私たちの苦しみ、悩み、混乱を全てご自分のものとしますから。 これこそ十字架の神秘の明白なメッセージです。 私たちの祈りが叶えられなくても、私たちが示す友情と共感は苦しんでいる人にとって非常に貴重な助けと役に立つ慰めです。

    ある人々の説明によれば、私たちが望んだ通り、神はその祈りを叶えなかったとしても、実際には神は違った風に 願ったことを叶えているそうです。 とにかく、無駄な祈りや効果をもたらさない祈りは全くありません。 自分の期待に反して、思いがけない時にきっと私たちをびっくりさせるために、神は信頼の内に捧げられた昔の祈りを叶えます。 事実、私たちが祈りを口にする前に、神は私たちが願うつもりのことを 摂理を通して叶えます。 このやり方によって、神はご自分の自由と慈しみを現すのです。 「神は私たちが必要とする物をご存じですから」(マタイ6,32)。 願いが叶えられても、叶えられなくても、この状態を通して神は 私たちに新しい出発の場所とスタートラインを準備していることをよく見分ることが必要です。 これこそ信仰のチャレンジです。お陰で私たちは、悔しさと疑いから深い信仰へと移ることが出来ます。

    試練と出会う時に幸せを信じ続ける事は難しいです。 不安と言いようのない恐怖が必ず私たちを襲ってきます。 神は「あなたを救うためにわたしはあなたと共にいる」(エレミヤ17,19)と断言します。 また、聖書は、「恐れることはない」という励ましの言葉を366回繰り返します。つまり、一年間に渡って、その日その日のために神は不安と怖れから私たちを保護する約束を下さいます。 世の終わりまで私たちと共におられる神は、救いと幸せを与えようとします。 しかし、私たちは神だけを支えとするか、それとも、自分の祈りや願ったものや期待により頼んでいるか、どちらであるかが問題です。 叶えられない理由は、ここにあるのではないでしょうか?

    預言者エレミヤは神の言葉を語ることによって、私たちに希望の大きな息吹を吹き込みました。 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29,11)。 しかし希望はいつも戦いへの出発です。 願ったことが叶えられても、叶えられなくても。なぜなら、私たちは一生懸命に願ったものと自分の心を結びつけないことに気をつけなければなりません。 むしろ、惜しむことなく神のみ旨を行うことが肝心です。 私たちは「まず、神の国とその正義を求めましょう」(マタイ6,33)。 どんなに、いつか、残る物事がすべて加えて与えられていると分かっていても。 「主よ、あなたに希望をおいた私はいつまでも辱められることがないと知っています」(テ・デウム)。



不足している鍵

    私達は戸に鍵をかける時、2箇所を違う鍵で閉める世界に住んでいます。 人間は誰でも鍵の束を持っていて、好きなように様々な戸を開けたり閉めたりします。 個人の鍵の束には、自分の家の鍵があれば、車やモーターバイクや自転車の鍵もあります。 数え切れない鍵がこの世界に自由を与え、数え切れない鍵がこの世の希望を奪っています。

   鍵は人に責任を与え、また人の評判を高めます。社長は誇りを持って自分の事務所の鍵を大切にし、お金持ちの人は、不安を抱いて自分の金庫の鍵を絶対手放しません。 学生たちはロッカーの鍵で自分の私物を守り、先生たちは、試験の問題を秘密の場所に慎重に鍵をかけてしまって置きます。 司祭たちは、聖体に対する不敬を防ぐために 教会の聖櫃の鍵を大切に人目につかないところに保管します。 一方、海外旅行に出かける人の中には留守の間、平気で自分の家の鍵を親戚の人やマンションの管理人に預ける人もいます。 また、鍵を忘れたり、鍵を失ったりする人がいれば、何本もの合鍵を持っている人もいます。 更に一日中、戸をあけっぱなしにして鍵を使わない人がいれば、もう役に立たない鍵を捨てずに別な箱に納めて置く人もいます。

   とにかく、私たちは鍵なしには生活が出来ないとよく分かっています。 役にたとうと立つまいと、鍵を持っている私たちの鍵の束が十分重いにも関わらず、私たちはいつも新しい鍵を捜し求めます。 成功の鍵、幸福の鍵、知識の鍵、安全の鍵、自由の鍵、赦しの鍵、悟りの鍵、謎や夢を解く鍵を探さなかった人がいるでしょうか?  私たちは なぜか 真実よりも幻を追いかけています。 しかし、必要不可欠で、私たちに不足している鍵はただ一つしかありません。 それは 私たちを開放し、心を拡大し、人生に広さを与える鍵です。 その鍵の名は「愛」です。 「愛の鍵」は、 神の国の門を開き、信仰が与える宝物の倉庫に通じる入口を開きます。 この鍵はまた 希望に飛躍を与え、他人を赦す力と決意を与えます。

   この「愛の鍵」は特にイエスの教会に預けられていて、キリストを信じる人は誰であろうと、この鍵を自由自在に使うことが出来ます。 偏見の鍵、悪口の鍵、嫉妬の鍵のような役に立たない鍵なら束になるほどたくさん持っている私達は、どうして一番大切なのに不足している「愛の鍵」をもっと熱心に探さないのでしょうか? イエスにこの鍵を遠慮なく切に願いましょう。 しかし、その鍵を手にすれば 昔のファリザイ派の人々を真似てはいけません。 「彼らは知識の鍵を取りあげ、自分たちが入らないばかりか、入ろうとする人々をさえ、妨げてきたからでした」(ルカ11,52)。

   イエスが言われたように この鍵で私たちが「地上で解くことは、すべて天においても解かれます」(マタイ18,18フランシスコ会訳)。 ですから感謝のうちに堅く閉じている物事を この鍵で開きましょう!  孤独の寂しさのせいで、美しいものがもう見えなくなった人々の目を開きましょう。 病や苦しみのせいで 喜びの歌がもう聞こえない人々の耳を開きましょう! 「ありがとう」と言えない人々の口と心を大きく開きましょう!  神の国の鍵が私たちの手に委ねられていますから 上手にそれを使って 人々のために幸せの道を整えましょう!



 庭、憩いの場

    この世では、時の流れと共に 全てが変わっていきますが、庭は昔のままの姿を保っています。 庭とは、人が花、野菜、木々を栽培する閉じられた場所であり、また人がその場所の中で散歩しながら 大自然の豊かさを味わう安らぎの場でもあります。聖書の創世記の話によれば、神は人間の幸せのために「エデンの園」を創造しました(創世記2,8)。この閉じられた庭で神も夕方になると散歩する習慣がありました。 不従順のせいで、憩いと幸せの場であったエデンの庭から追い出されてから 人間はどうしても このエデンの園に似ている庭を造るようになりました(創世記3,8)。 額に汗を流し、土を耕す人間は 生きるための畑を作りながら、自分の安らぎを与える美しい庭を造るように努力しました。 小さな庭であろうと、大きな公園であろうと 全ての庭が 疲れた人に憩いと安らぎ、落ち着いた気持ちと心の静かさを与えます。

    庭の豊かさを深く味わうために人は好奇心を刺激させる物事を探しながら、自分のリズムに合わせて歩く事が望ましい。また、静かに、青草あるいはベンチに座って、新鮮な空気や、小鳥の歌や町から昇ってくる日常生活の音に耳傾けるのも必要です。憩いと安らぎを得たい人は庭の中にあるすべての物事に捕らわれるように じっとした方がいいのです。「いつものようにそよ風の吹き始めるころ、エデンの園を散歩する神は」(創世紀3,8)きっとご自分が創造した庭をご覧になって大いに楽しんだでしょう。まして、アダムとエヴァと共にエデンの園の美しさと豊かさを深く味わったでしょう。

    仕事を終えた後、公園や小さな庭を散歩する人や、ベンチの上に座ったり寝たりする人も少なくありません。知らないうちに、人間はエデンの園の安らぎと憩いを慕っているに違いありません。 庭の静かさのうちに 人は一日の苦労や一週間の疲れを忘れようとします。そして、新しい出発をするために大自然の息吹きを受けながら、自分の体力を新たにします。この世では庭と公園が、人が元気で生き続けるための必要不可欠な場所です。そのために神は 天国を人の想像力をはるかに越える美しい庭(楽園)と比べます。永遠の楽園で、すべての人々は神と共に、神の内に永久の幸せと憩いを味わうように召されています。

    聖霊によって満たされた預言者も、詩篇の詩人も「神の庭」への憧れを述べています。「私の魂は、主の庭を慕い、体も、心も生きる神にあこがれる」(詩篇 84,3)。「主は荒れ野をエデンのように、その荒地を主の園のようにする。そこには喜びと楽しみ、感謝と歌声がある」(イザヤ 51,33)。更に、神を信じる人の魂は庭に例えられています。「私の妹、私の花嫁は、閉じられた庭、封じられた泉です」(雅歌 4,12)。

    日常生活の忙しさの中で、人を誘う庭は 憩いのひと時として 人間が失ったリズムを私たちに取り戻させます。庭は私たちにとって、調和とバランスの取れた生き方を与える泉です。庭を散歩し、庭の美しさを味わいながら、人は命の神秘に触れることが出来ます。すべての庭は 最も良い生き方を私たちに教えています。神のように、私たちもそよ風の吹き始めるころ 庭で憩いと幸せの息吹きを受けて、生き続ける新しい理由を見つけましょう。「園の番人」として現れ、復活されたキリストは きっと町の小さな庭や公園であなたを待っているに違いありません。ですから、目も、心も、手もよく開いて、聖霊のそよ風の息吹きをしっかり吸ってください。



年を取ることは    役に立ちます。

    人生は自分の人格を確立する相次ぐ瞬間で形作られています。 幼児期から青春時代までは、両親が全責任を持ち、大切な物事を決定します。その時期は「若い頃の気楽さ」と呼ばれています。 大人になると、自分が自由にしたい事を選び、その結果の責任も負います。 壮年時代は、自分のエネルギーと全力を注ぐ最も豊かな時で、「活動的な生活の時」といわれます。 やがて現役生活から退いて、人は「退職の年齢」になって、「老年」を体験し始めます。

  皆がその時を同じように生きて行くことは出来ません。 夫婦生活を続ける人もいれば、一人だけで毎日の苦労と戦う人もいます。 子供や孫に囲まれている人もいれば、孤独の生活をする人もいます。 また、年を取るにつれて、体の状態が崩れ、気力も弱くなり、病気と共に疑いや恐れが自分を襲ったりします。 残念ですが
病やストレスや我慢する忍耐力が弱くなるなどは、大勢の高齢者の特徴です。 この状態を耐え忍ぶだけの人は、老年時代が全く役にたたないと考えるようになります。

   しかし、老年時代はとても役にたちます。 退職した人は時間をたっぷり持っているので、自分の生涯の大切な日々や幸せや不幸の出来事を思い出すことができます。 距離をおいて見ることによって、昔の出来事が新しい味を持ち、それによって人はもう一度幸せの時を味わうことが出来ます。 当たり前の事ですが、我々各人、各家族は固有の歴史を持っています。 高齢者はそれを子供と孫たちに正しく伝え知らせる責任があります。 と言うのは、現代の子供たちは自分たちが見て、ずっと使っている物が前から存在していると思い込んでいるからです。 自分の過去についての記憶、また昔と現在の生き方と考え方の違い、更に、人間に対する尊敬と同時に自然、建物、物に対する尊重を自分の子供や孫たちに教え、理解させる事も必要です。

  職場にいた時や、家の家事に捕らわれていた時には、人は祈る時間や霊的な読書をする時間を見つけることが難しかったに違いありません。 しかし、退職してからは時間が充分にあります。 ですから、その時は生涯に渡って頂いたすべての恵みに関して、神に感謝と賛美を捧げる時になっているのではないでしょうか?    また、全く祈れない人々、或いは祈りたくない人々に代わって 高齢者は祈ることで愛の行いを実現します。 そうすることで、自分に残されている各瞬間を輝いた瞬間へと変化させます。 その上、自分の死に向かって良い準備をします。高齢者が、落ち着いてゆっくりと 主の前で死の準備をすることは望ましいことです。

  聖書の中で励ましを与えられる言葉を 高齢者は見つけるでしょう。 「わたしは、年齢にふさわしい者であることを示し、若者に高貴な模範を残します」(2マカバイ記 6,27-28)。 「白髪の老人が判断力を、長老たちが助言をする知識を有することは何と好ましいことか。 年老いた者の知恵、名の知られた者の理解と助言は、何と好ましいことか。 豊かな経験は年老いた者の冠、主を畏れることこそ彼らの誇りです」(シラ書25,4-6)。  「神の庭に植えられた人は 白髪になってもなお実を結び命に溢れいきいきとしています」(詩篇 92,15)。

  自分の年齢に新しい値打ちを与える人は、命について積極的な眼差しを受けるのです。 このような高齢者は自分のなかに閉じこもることはしません。 楽天的な高齢者は、他人との出会いを大切にして、小さなことであっても役に立つように すべての可能性を捜し求める人です。 もし、真心から人の役にたちたいと望むなら、その人は、必ず自分が役に立つ者であることを感じるでしょう! 高齢者にとって 生き続けるには努力が必要です。 そしてもう自分の為にもはやしない事を、他の人のために単純な心で行うのは望ましい事です。  ですから、年を取ることを困らせる試練の時として見ることなく、むしろ、神に委ねられた貴重で、役に立つプレゼントとして見ましょう。



同情を寄せること、憐憫の情を抱くこととはどういう意味でしょうか ?

   同情を寄せることは、とても威厳に満ちたキリスト教的な行いである。 他の人の苦しみや悩みに対して憐憫の情を抱くことは それは その人の苦しみと一致することで、また、自分たちが示す友情によって 彼が決して一人きりでないことを表す。 しかし、それを示す時、絶対に取ってはいけない態度がある。 それは、悲しい顔を見せる事や本人の前で涙を流す事や心配する姿を示すことである。このような態度は 苦しんでいる人に新しい苦痛を加えるだけである。 暗い顔で見舞いをする人は、病者の助けにはならない。 なぜなら、それは自分たちの苦しみや悩みを苦しむ人に更に与えるからである。

   また、自分の助けと思いやりがどうしても必要だと思い込む時に このような同情は知らず知らずの内に 高慢な心に変化する可能性が高い。 というのは 自分が与えようとする慰めは かえって、苦しむ人を圧迫し、弱くなっている人は 自分に注がれる眼差しと 無神経に語りかけられる慰めと励ましの言葉を、自分より偉いと考える人から受けていると感じざるを得ないからである。

   例えば、病院で働いている医師や看護師は、大人である病者や老人を、子供のように扱ってしまう危険がある。 気をつけないと私達が示そうとする同情と憐憫の情は 人を支配する野望や弱い人を圧迫する意志に変化する。 このようにある人にとって、同情を寄せることは、憐憫の情を抱く事を仕事としてしまい、他人の不幸を自分が自己満足のうちに、心地よく生きる為の手段としてしまう。

   真の同情と憐憫の情は 共感ではなく、むしろ苦しみや悩みと戦う力である。 このような同情は、自分たちの心にほんの少しのやましいところもないなどとは決して思わせない。 難しいのは人の苦しみと一致することではなく、苦しむ人の内にある希望と力を取りだし、湧き出させることである。 真の同情と憐憫の情は自己満足を与えず、 喜びと癒しをもたらし、また 苦しむ人を優しく健康にし、回復させるところまで導く、強い目的を持つ。 同情と憐憫の情は 母親と同じ心を与える。 母は 苦しむ自分の子に 決して不安や心配や涙などを示さない。 むしろ明るい顔や微笑みや喜びや未来への希望を色々な風に示す。 私たちも、母親と同じ心で 苦しむ人や悩む兄弟姉妹に向かおう。 そうして何よりもまず、キリスト者として あきらめることのない祈りによって、苦しむ人にキリストご自身の慰めと癒しの力を与えよう。



分かち合うとはどういう意味でしょうか?

   私たちは他者と分かち合うことで満足感を得られるかもしれない。 しかし、私たちは「分かち合う」ことで幸せになるだろうか?

   教皇ベネディクト16世が「真理における愛」という回勅のなかで、次のように書かれた。「正義なしには愛徳がない・・・正義とは人に自分の所有するものを与えることである」と。 私たちは簡単に自分のいらないものを、愛徳の名によって差し出して、それは「分かち合いの印だ」と思いがちである。 しかし、真の分かち合いはいつも憤慨する事で始まる。 つまり分かち合いを望む人が、他者が人間に相応しくない状態にいるのを承諾できない事から始まる。 即ち、自分たちが持っているものを他者は全く持っていないという不正に対する苛立ちを示すのは、その第一歩である。 人に相応しい事は、体や衣服の清潔さ、仕事、家、食べ物,友、健康、生活費があること、社会の中での安定した生き方や明るい未来などである。

   私たちにとって、有り余るものや使っていないものを与えたり、お金を寄付したりするよりも、他者が私たちと同様に物事を所有する権利があるという事実を大切に考えた上で、努力や工夫を示すほうが正しいことではないだろうか?  分かち合うことは自分の命を与えることと深くつながっている。 このように神は私たちの惨めさを分かち合う為に、ご自分の命を捧げられた。 マザー・テレサは「貧困をつくるのは神ではなく、私たち人間です。」と言っている。 私たちは命をかけて分かち合う人間でなくてはならない。 例えば、母が自分は食べなくとも子供にはパンを与えて分かち合う事に、無償の愛の姿が見受けられる。 分かち合うことの喜びの中に、優越感があってはならない。 「多くの人は一切れのパンではなく、小さな微笑みに飢えているのです。」と言ったマザー・テレサは「ないものさえも与えなさい」という犠牲の精神を望んだ。

 勿論、カリタス・ジャパン、大阪シナピス、冬の会、NGOなど、いろいろなボランティア活動が必要である。 しかし、困っている人の為に自分の命をかけて、自分の自由さえ失うという分かち合いこそが、私たちをキリストの真の弟子にする。 「ないものさえも与える」という分かち合いは、自分自身と共に他者をも幸せまで導く。 これこそ、真理における愛ではないだろうか!



司祭は希望するとはどういう意味でしょうか?

   希望することは望むことではない。 望みは、近い未来での実現を目指すので、時間や人の欲や計画に制限されている。 むしろ希望は教会の信仰と神の愛の印を持っているつので、永遠の幅がある。 希望するとは 未来を越えて、永遠への道のドアを開ける事である。 望みと希望は 人に生きる理由を与えると同時に、人の想像力や考えに不思議な翼を広げさせる。 しかし、希望だけが、生涯を通して私たちが経験によって知った事や体験した事よりも 人生が私たちに与えようとする可能性が非常に多く、豊かである事を教える。 希望は、幻や言葉の中にあるのではなく、むしろ人が具体的に信仰によって体験する状態の中にある。

   試練や失敗や絶望の時には、誰であろうと救いの出口を求める。 終身刑の宣告を受けた囚人は 他の囚人や訪れる人との出会いのうちに 生き続ける希望を見出す。 目の見えない人や、耳の聞こえない人や体の不自由な人も、必ず他の人との出会いの内に生きる力と生き方の工夫を見つける。 希望はあっという間に天から落ちて来るものではない。 希望は自分の心の奥底から生まれ、他人が示した信頼、友情、思いやりとの出会いによって成長し、段々強くなり、そして 神の関わりの中で 確かに、未来を明るくすると言えるだろう。 希望は 既に何かを具体的に体験した人の証しに耳を傾ける事からも始まる。 人は一人で希望を育てる事はとても難しい。 希望する人は 自分の人生に新しい意味と光を与えるだけではなく、他の人々の人生にも力や勇気や輝きを与える。

   ところで人間は、大抵、思いがけない出来事のおかげで、あっという間に変わるので、 聖書の多くの詩篇が 私達が神の内に希望を置くことを強く勧めている。 神の愛といつくしみは永遠であり、ゆるぎないものである。 使徒パウロも たびたび「キリストが私たちの希望」である事を宣言する。 カトリック教会の教えによると『希望』は3つの対神徳(愛、信仰、希望)の一つである。 希望の目的は 永遠の幸せと神の神性に与かることである。 そのために信者は、絶望のあるところに希望を置き、自分の力よりも、キリストの約束と聖霊の助けに寄り頼む。 希望するキリスト者は 悪に対して強くなり、試練に対して忍耐と勇気を示し、未来を明るいものとして見、受け入れる。しかし、キリスト者の希望は まず祈りの内に深い根を下ろす必要がある。 そして、神に対するゆるぎない信頼を現す決意を持つ。 それがないと残念なことだが、 希望は望みに変わる。



司祭は一体何者でしょうか ?

   
主イエスが受難に直面して、晩餐の食事の時 17回 『喜び』という言葉を使った。 それ故、司祭は いくら日ごとに困難、無理解、反発にであっても、彼は喜びに満たされた人であり、またその喜びで、キリストを信じて洗礼を受けた人々が段々大人の信仰を持つように助ける人である。 キリストとの親密さや福音宣教が与える喜びを持たない司祭は 中々救いの良い知らせを伝える事が出来ない。 司祭は、輝やく喜びによって、命の泉であるキリストのすぐそばに人々を引き寄せる幸せな人である。 司祭は神に生きる事を教え、証すると同時に 信仰の喜びを与え養い、聖書の言葉の意味とその喜びを人々に発見させる。 更に、司祭は正しく生き、祈り、取り成し、折が良くても悪くても励まし、とがめ、戒め、忍耐強く十分に教える。(2テモテ42

   徴税人の頭、ザアカイをご覧になったイエスは 彼に道徳的な厳しい話や説教をせずに、ただ「今日、是非、あなたの家に泊まりたい」といっただけである。 この誘いは ザアカイの生き方を変え、彼を救った。 司祭も、キリストの憐れみの目で人々を見、彼らの内にある何に福音の力強い影響を与えるかを探す。 それを見つけたら 人々の中から回心の泉が湧き出るように司祭は一所懸命努める。 結局、司祭は 地下の水脈を発見する水脈占者のように 人の心に隠れている寛大さや優れたものを発見し、信徒の共同の幸せと利益のために取り出し、湧きださせる。

   司祭は キリストの名によって 人々を主の喜びのうちにつなぎ、一致させる者である。 司祭は、勿論 人々の物質的な飢えと渇き、ニーズと不足を気をくばる。 しかし、何よりもまず、人々の霊的な飢えと渇き、ニーズと不足を考えて、精一杯満たそうとする。 ミサ祭儀の時、命のパンを裂き、救いの杯を捧げる司祭は キリストとなって秘跡的に皆を誘う。 それは共同体が隣人愛を行い、互いの助けに励み、分ち合うためである。 司祭は自分にゆだねられた人々や出会う人々を絶えず神に紹介し、彼等に豊かな祝福や神への知識やゆるぎない愛が与えられるように切に願う。 司祭は世の救い、人々の平和と幸せを神と共に強く望んで、自分に生きるのではなく、喜びのうちに神に生きようとする人である。

   司祭は神から選ばれたものだからこそ、信徒の共同体も神の恵みによって存在するという喜ばしい事実をたえず司祭は共同体に思い起こさせる。 彼にゆだねられた共同体が愛の完成まで導かれるよう、司祭は日ごとに、神を探し求め、見つめ、神に感謝し、祈り、取り成す。 又、聖書の言葉の黙想によって自分自身の信仰と神に生きる喜びを養い続ける。 このようにして、司祭は キリストの真の証人になる。 しかしながら、司祭がキリストのしもべの状態から親しい友の状態へ移されるためには、信徒の共同体の祈りと助けが土台となる。 その具体的な支えがなければ司祭の忠実さと喜びが大きな危険にさらされるということを全ての信徒が知るべきである。




魂の生き方の意味とは何でしょうか?

   砂漠の中では車が渋滞しない。 砂漠で生活するツアレグ族の人々が 空の星を見、砂の上に全ての命の印を捜す。 それは、動物の足跡、植物、風の音、井戸、オアシス、他の部族の天幕などである。 町に住んでいる私達が、星空や自然の美しさを見ようとせず、自分のことの夢中になって、生活環境に対して無関心であり、また、見知らぬ人との出会いを避けている。 しかし、信仰に生きる人にとっては新しい一日一日が 神に感謝するために、新しい眼差しを与える。 砂漠にいる人が目的地にむかって真っ直ぐに歩く。 私達がまがった道、小道の入りくんだ所を好む。 ツアレグ族の人々が水を見つけるために、暑い砂漠の中で長く歩き、非常に苦労し、見つけた水を大切にする。 私たちは蛇口を開けるとあっという間に冷たい水を得、度々この水を無駄にする。

   自分の魂を生かしたい人は ツアレグ族の人々のように 注意深く全てを見、味わい、大切にする。 祈る人は、全世界を抱きながら、天におられる方を見、命を祝う。 祈りは、魂の呼吸であり、精神と体のバランスを保つ。 残念な事に、沢山の人が 魂の内にあるべき三位一体の現存を失っているから、孤独な者となってしまう。 他の人々が 現代のスターや有名人やタレントを自分の光り輝く理想的な模範とする。 結局彼らは手に入れる事の出来ない幻想を追いかけ自分自身を輝かす事を完全に忘れてしまう。

   既に、神を心に持っている人は 必ず、神の方へ引き寄せられる。 人の魂は 広さ、強さ、自分を超えるが同時に自分を満たす偉大さを慕う。 信仰が人の生き方を導く。 砂漠のツアレグ族の人々が日常生活の問題を避けて逃げようとしない。 むしろそれらに直接ぶつかるために 前に進み続ける。 私達は思いがけない問題がある時、すぐ非常口を捜し求める。 試練は魂と信仰を強め、豊かにする。 信仰を生きることや魂を養う事、 それは 様々な出来事や出会う人々を通して 自分から自分へと進む事である。(回心) 言い換えれば、自分のうちにある神秘性を発見する事である。

   あらゆる面で自分の人生に生じる思いがけない物事を避けるために、人が、前もって、全ての瞬間を準備し、計画するなら その人は自由と信頼を失い、パニックの陥ることになる。 信仰に生きる人の魂は 災いや思いがけない出来事に直面しても、恐れのない信頼とゆるぎない希望を示す。 自由な魂は 神を捜し求め、絶えず喜びと平安のうちに高められる。 どんな状態の中に置かれても、信仰に生きる人の魂は 喜びを保つ。 何故なら、神に愛されている事を知っているから。 これこそ魂の一番の豊かさであ




カメレオンが信仰生活の模範です。

   カメレオンは動く時に選んだ目的に向かってまっすぐに進み、方向を変えず、絶対に頭を左右に動かさない。 同様に、信じる人は 神を人生の目的とし、まっすぐに歩かなければならない。 頭をじっとさせているカメレオンは休みなく目を動かす。 上下左右、あらゆる方向を見て、判断してから自分の歩き方を決める。 キリスト者も、信仰の目的にたどりつくために、自分の周囲にある全ての状況や出来事を確かめる。 よく見、聞き分け、判断し、識別してから 行動する。キリスト者は 自分の信仰を養う為に絶えず色々な情報で知識を得る。

   カメレオンの右と左の目が独立して、同時に違った方向を見ることが出来る。 キリスト者も右の手のすることを左の手に知らせない。

   さて、カメレオンが獲物を発見する時に絶対に急がない。 むしろ非常に長い舌を突き出し、その獲物が安全か 毒をもっているか、味の悪い獲物かをその舌でよく調べてから 飲み込む。 キリスト者も、人を非難する事や人の悪口を言う事を避けて、特に、自分の口に悪の言葉を入れないようにする。 フランスには、「話す前に自分の舌を口の中で七回まわす」ということわざがある。

   目的にたどり着いた時、カメレオンは すぐ、その場所の色を身に付ける。 これは偽善ではなく、生活環境への適応である。 キリスト者も生活環境に相応しく生きるために 周囲にある物事に適応し、隣人を知ったり理解したりする義務がある。 カメレオンは 前と後ろの一本の足を上げてゆっくり進む。 その足を新しい場所に置く前に その場所の安定と丈夫さを確かめる。 体を揺らしながら ゆっくり一歩一歩進むカメレオンは キリスト者のバランスの取れた生き方や行い方を教えている。 同様に信じる人も どうしても信仰の安定と強さを持つ必要がある。 キリスト者は 賢明で、慎重であり、用心深い人でなければならない。

   カメレオンのしっぽは物を掴む事が出来る。 進む時に必ず安定した所に カメレオンは自分のしっぽをひっかける。 このようにして、万一前の場所が不安定なら自分を守ることが出来る。 キリスト者も、カメレオンと同様に、安定して、ゆるぎない神のみ言葉に心をつなぎながら、自分の後ろを守るべきである。 前も後ろも 神が自分を囲むように 信じる人は賢く動き、行い、安全に信仰の道を進む。 カメレオンのように信仰生活を送るキリスト者は幸い!



忍耐するのはどういう意味でしょうか?

  
忍耐する事は我慢する事ではない。 我慢は身体的、精神的、道徳的な苦しみや避けられない痛みと結ばれている。 人は寒さ、暑さ、飢え、乾き、体の疲れなどを我慢して強制的に耐え忍ぶ。 我慢する人は試練が早く終わるように強く望む。 我慢はいつも人の感情と気持ちに結ばれている。 むしろ、忍耐は 思いがけない出来事を通して 勇気、希望、さらに、それを上手に利用する意志を見付ける。 忍耐する人は落ち着いた心と精神で 試練の時が長く続く可能性を承諾し、また、思いがけない状況を絶望せずに甘受する。

  忍耐のお陰で 人は期待している物事を期待をはるかに超えてさらに得る。 忙しい人とは既に死んだ人である。 彼は命が豊かに与える物事を取らずに、自分の滅亡の方へ走る。 むしろ、忍耐する人は 時を自分の友として、ゆっくり何かを実現する事で自分自身を完成する。 忍耐する人は自分の心、体、精神の一致を維持し、そのバランスを保つ。 かえって、忙しい人はいら立ち、不器用となり、他人に迷惑をかける。 その結果、自分の人生の調和を失ってしまう。

  例えば、約束の時間に遅刻した忙しい人にとっては バスを待つことが拷問そのものになるに違いない。 しかし、忍耐をもって、時の流れを味わう人にとっては 新しい発見をする豊かな時間になる。 その人は ゆっくりと道の状況や人々の様子、動き、表情やくせ、ファション、を見ながら 全ての出来事や物事を 自分を楽しくびっくりさせるものとして受け留める。 このように忍耐する人の日常生活は 喜びと命あふれる人生になる。 いくら大勢の人が「時は金なり」ということわざを言うとしても、残念なことに 時は買えない。 時は命そのものである。

  砂と水の井戸以外、またラクダの群れの動き以外 何も見えない砂漠で生活する人々が忙しい人に「忍耐の終わりに天国がある」という習慣がある。 砂漠の人々が風の音を聞くだけで幸いを味わう。 忙しすぎる私達が「時間がない、ああ、忙しい」と言って、自分の環境と自然が豊かに出会うことを避け、また自分の環境や自然との豊かな出会いをも避けている。 そして何もかも嘆き、不平不満を言い続け、もはや生きる喜びを失っている。 私達は時を所有することが出来ない。 しかし、私達が時を友とするなら 時は自分の人生の宝石となる。 私達は自分の忍耐が我慢にかわらなうように、忍耐を支配し、育てなければならない。 同時に、時を敵と見なさず、手なずける必要がある。 忍耐は 希望と愛に結ばれているので、それを生きるための飛躍に変えるのはキリストにおける忠実な祈りである。



思いやりとはどういう意味でしょうか?

  
自分の身に比べて他人の身について判断したり、あるいは相手の立場や気持ちを理解したりすることは人間の自然な反応である。 思いやりを持つ人はこの自然な反応に自分の想像力を加えると、憐れみや共感や気の毒な眼差しと気持ちを強く感じるので、他人に対してすぐ具体的な行動に移る。人の感情と結びついている思いやりは 決して同情にならない。 しかし、思いやりは全く知らない他人を友や親戚の新しい兄弟のように変え、考えられない親しい絆を生み出し、自分と相手とを結び合わせる。

  思いやりは人の心から優しさ、親切,善良、寛大さ、好意など という豊かな気持ちの飛躍を湧き出させて、それらを効果的に愛に溢れる行いに変化する。 残念なことに 気を付けないと 思いやりは 思わず、自己満足や充足や虚栄心を引き寄せる。 結果として せっかく善意から生まれたのに 思いやりは人に迷惑になる可能性が多い。 思いやりのある人はどうしても自分の行動に賢明、慎重、判断、自己批判を付け加える必要がある。 なぜなら 何回も何回も思いやりを受ける人は 自分を助け、憐れみ、大切にしてくれる人よりも 彼が与える物事を望むようになる。 それは 丁度クリスマスの時 子供たちがサンタ・クロ−スを待ち望むのは 彼がとても優しいからではなく むしろ彼の持ってくる沢山のプレゼントを望むのと同じである。

  キリスト者にとっての思いやりは 愛徳や憐れみやいつくしみの肯定的な態度とつながっている。 信じる人は 思いやりを通して神ご自身の憐れみやいつくしみを表そうとする。 キリスト者は 神の似姿である事を理解してから 福音が述べる例え話の良いサマリア人のように 心と知恵と全身を尽くして 困っている人に、つまり、人生の谷間に置かれている人に救いの手を差し出す。 神があわれみ深いように、キリスト者も憐れみ深い者になろうと努力する。 キリスト教的な思いやりは 神ご自身の行い方を模範とし、信頼、勇気、忍耐、希望、祈り、感謝、喜びと自己放棄を要求する。

  キリスト者は 神の助けがなければ何も出来ないと知っているから 思いやりの業を実現した後、すぐ 神に感謝する。 同時に 助けを受けた人が元気で 社会の中で安定した立場に戻るように 思いやりをもつ人は神に願い求め、切に祈る。

   祈りの支えがなければ 示されたあれやこれやの思いやりは一瞬の優しい態度となってしまい、決して実を結ばない。 神に捧げられた思いやりは必ず ひどい状態を変え、人のみじめさを癒し、社会を明るく立てなおし、神の救いを具体化する。



自律とはどういう意味でしょうか?

  
自律している人は自分で自分の行為をコントロ−ルする。 つまりその人は 外からの型にしばられず、自分の立てた規範に従って行動する。 しかし自律は自由と同じではない。 社会のきまりや法律に従いながら 自律によって人は新しい考え方、見方、行い方などを発見し、それを上手に使う。 例えば、イエスは モーゼの律法に新しい展望をもたらす。 キリスト者はイエスの模範に従って 敵を憎むよりも愛し、暴力に対して柔和を保ち、不正と偽証に直面する時 赦しと沈黙で答える。 このような自律は決して弱さではなく むしろ精神力や知力である。

  自律している人は自由自在に、ありのままに行動する。 社会の規律や掟を尊重しながら 自律は ある面で人の発展を助ける。 たとえばカントの倫理思想において 自律は根本になる。 即ち、自ら普遍的道徳を立てて、これに従うのである。

  キリスト者は信仰の恵みのお陰で全ての人に対してすべてのものになる。 即ち、弱い人に対して弱くなり、知恵のある人に対して、賢くなる。
(1コリント920-22) それはある種類の偽善と軽蔑ではなく かえって 謙遜とへりくだりの態度である。 キリスト教的な自律の目的は 自分の独立を表すことではなく、むしろ相手の利益や自発や自由を要求することである。 このような自律は 誰も圧迫せず、支配もできない。 真の自律は 人間が持つ最も優れた可能性と才能を発揮させる。

  さて教育者の勤めはここにある。 絶対に、生徒皆を同じ型にはめてはいけない。 むしろ、それぞれの生徒が 自分の人生で 固有の、特徴のある自律を育てる人間になるように 教育者は、工夫して教え、全力を尽くす義務と責任がある。

  現代が必要とするのは ロボットのような意思のない人間でもなければ、あるいは動物の群れや奴隷のように動く人間でもない。 現代が必要とするのは 確立された自律をもって、自由自在に考え、行い、話す 立派に成熟した人間である。 「信仰は 人を自由にする」と聖書が教えている。 確かに キリスト者は どんな状況の中に置かれても 何にも支配されることなく、 信頼と希望を抱きしめ、問題を直視して まっすぐに進む。 信仰は 事実、まことの自律の道のりである。



鏡の真理とは何でしょうか?

   全てを逆さまに見せる鏡はうそつきだと言われる。 朝と晩、鏡の前で歯を磨く時、ひげを剃る時、あるいは髪の毛を櫛でとく時に、自分の左右逆になった姿を見る度に、何となく変な気分になる。自分でない人を見ているように感じる。事実、自分のすべての身振りを逆に真似る自分自身である鏡の人に、容易に慣れる事は出来ない。なぜなら私たちは、鏡の中の自分を他人のようにみ、自分とまったく関係のない人だと感じる。

   残念ながら、鏡の中に見る私は他人の姿ではない。私自身であるにもかかわらずその自分自身と出会ったり、対話したり、関わったりすることが全く出来ないので欲求不満を覚える。鏡の中の自分は ただ見知らぬ、親しくない人である。同様に、録音された自分の声を聞くと 言い表せない変な気持になる。 他の人には自然に聞こえているのに、本人だけが不快感を受ける。録音された自分の声を聞くと 不自然なうるさい、いら立たせる声だと強く不満足に感じる。確かに、誰であろうと、自分自身を見たり、自分の声を聞いたりすると、何となく気分が悪くなり、変な気持ちになる。

   鏡が反映する姿と録音された声のおかげで 私たちは 次のことを学ぶようになる。人が神に創られたのは 自分を見つめるためではなく、また、自分の言葉だけを聞くためでもない。自分を見つめるよりも、人は 他人をよく見る事、彼人からありのままに見られることが最も大事である。 自分の言葉のとりこにならずに、人は 他人と対話し、他人が語る言葉を聞き、その意味を理解する努力が必要である。 他人が私たちの顔を直接に見る、しかし、私たちは それが出来ない。 ある意味で、私たちの顔は 他人に属する顔である、決して私たちのものではない。自分の顔が自分にむいていないから、当然、私たちを他人に向かわせる。そういう理由で、人が自分の顔を鏡で見る度に、不可避的に、その顔はマスクのような、仮面のようなものとなる。確かに、人は他人の眼差しの中で、他人の目で、自分自身がよく見えるようになる。 自分の顔は主として、他人に捧げられている、そういう訳で、人々が私たちの顔を見れば見るほど 友情や喜びや安らぎや安全さを感じる。 一方、絶えず自分の顔を見つめる人は、自分の中に閉じこもり、自己愛とナルシシズムの犠牲者となり、人を避け、最後には社会性を失う。

   私達は人々と共に生きるように神の愛の内に作られた。「人が独りでいるのは良くない」と神が言われた。(創世記2,18) 私達は ただ、人々との交わりの中でだけ完成される。互いに互いを見つめ合い、話し合うことで 私達は 人間の素晴らしさを発見し、自分が豊かになり、幸せな人間になる。だから、鏡を利用する度に 他人と出会う決意を掴もう! 私達の美しさはその出会いの中心にあるのだから!




知性とはどう言う意味でしょうか?

   簡単に言えば知性は 頭脳の知的な動きであって、知恵と判断と知覚と親密に結ばれている。 つまり、物事に対する分別にもとづいて認識する精神的働きである。 例え、いくら人が世界中の国々の地名や首都や支配者の名を覚えても、知性を持っているとは言えない。 それは賢さよりも、ただ暗記力の強さだけを意味している。 記憶は決して知性にならない。 知性はまた色々なことに対する知識ではなく、特徴のある生き方を生み出す。

   知性のある人は見たこと、聞いたこと、体験したことから判断と知恵を得て、それを育てる。 知性のある人が記憶しているのは、自分の認識と物事の知覚を上手に使うためである。 人は生まれる前から 母の胎内で すでにたくさんのことを認識している。 成長すると同時に人は 故郷の景色や文化の豊かさ、家族が伝えた礼儀や生き方、学校で学んだ色々の物事、覚えた社会生活の規則とルールなどを通して自分の知性を日毎に発達させる。

   キリスト者は他の人よりも知性があるわけではない、しかし彼はそれに信仰の知恵を加える。 信仰は心の知性を作り上げる。 キリスト者は 神の目で見、神の耳で聞き分け、神の霊で物事や出来事を理解し、判断してから、自分の取るべき振る舞いを決める。 またキリスト者は 自分の知性に、道徳をくわえて行動する。 つまり人の前でも、神の前でも、自分の良心に従って生きようとする。 さて、自分の知恵や判断をはるかに超える物事に直面する時、キリスト者は 無理に理解しようとせず、むしろ問題を解決できない自分の無力を謙遜に認める。 というのは自分の弱さ、短所、無力を認める事こそ知性への大切な第一歩だからである。

   知性は 人の心を満たし、知恵を教え導き、適切な態度を取らせ、社会性を与える。 知性は 、バランスの取れた生き方や賢明さや慎重さを与え、忍耐と時の観念を教え、知恵や判断を深め、絶えず一層豊かにする。 知性のある人は キリスト者であろうとなかろうと この世界に新しい飛躍を与えたいと望み、自分の良心に従ってこの世界をあらゆる面で 人間にふさわしい美しいものに変えようと努力する。



奉仕とはどういう意味でしょうか?

   奉仕は 報酬を求めず、見返りを要求することもせず、無私の労働を行うことである。 そういう意味で、奉仕する人は仕事をするのではなく、むしろ全身全霊をつくして他人のために何か役に立つ事をする。 また奉仕する人は 助けた人や、世話をした人から感謝を受けるのを目的としない。 奉仕という言葉の由来は、多分、宗教的活動を土台として生まれたと思われている。 宗教的な行為や神への奉仕の形として、神でない者に対して同じような奉仕をすること、例えば、困難な立場に置かれている人に手を差し伸べ、出来る限りの援助を与えるというケースが考えられる。 しかし奉仕が「隣人愛」と全く同じ意味を持っていると単純に決めてしまうことはできない。

   神の名によって行なわれる隣人愛は人の心を新たにする。 人のために行われる奉仕は、それをする人にいつも新しい工夫を与える。 と言うのは、人は 命令に従って奉仕することが出来、又、自由自在に奉仕することも出来る。 隣人愛を行う人は、自分の信仰に従い、イエス・キリストや聖人たちや優れた人物を模範として行動する。 しかし、奉仕する人は 誰も模範とせずに、自由に、適当に、人に対する取るべき態度を決める。 しかしながら、奉仕するとき、それが役にたつかどうか、その人が幸せになるかどうかを、考える必要があるのではないだろうか? つまり奉仕の精神を持つ人は、他の人を強制することなく、その人の要求に応えなければならない。 キリストは「私があなた方を愛したように、お互いに愛しあいなさい」と教えられた。 奉仕する人に必要な教育はこの精神である。 故に、奉仕は役に立つ事を通して、人を幸せにしていく。

   隣人愛と違って、奉仕は 神の愛を表し、自分の信仰をあかしするという目的をもたない、ただ人の幸せを望む。 そして、幸せになった人は、また、自分が受けた親切と同じ事を他の人にしたくなり、更に、その親切で幸せになった第3の人も、同様に他人に親切をしたくなり、幸せと親切は人々の中に広がっていく。 ここで、 まさに奉仕自体は 模範となる。 つまり、自分が受けた事と同じ事を他人にも実行するのが、人間の本性だからである。 奉仕は 人々に「奉仕の心」を作って育て上げ、広げていく。

   「私は、仕えられるためではなく、仕えるために来た」とイエス・キリストは言われた。(マタイ2022) キリスト者は 隣人愛と奉仕の勤めを一致させ、キリストのように、人の上に立とうとするのではなく、人の下に身をおいて、自分と同様に生きる資格のある大多数の人々に奉仕する者になろうと努力する。 そこで、親切、思いやり、心遣い、謙り、人への尊敬 それに加えて想像力が 奉仕の土台でなければならない。

   このようにして、他人のために様々な良い、役に立つ事を行ないながら キリスト者は 「私達は取るに足りないしもべだ。 しなければならないことをしただけだ」(ルカ1710節)という聖書の言葉を、謙って、自分に聞かせ、お世話になった人や、お世話した人の幸せを自分の幸せとするように心がけたいものだ。

 無償の愛や助けを与えていれば、どこかで、それは、広がって行き、そして、知らず知らずのうちに、沢山の人々をその動きの中に引っ張って行く。



倫理とはどういう意味でしょうか?

   
人間は、両親や社会から受けた教育のよって、世の中の物ごとに対して、その正邪善悪判断する。 正しく良いと認識した物事を 自分の生き方の模範とし、それによって道徳への道が開かれる。 道徳の原理は倫理である。 倫理は 存在の価値と人の振る舞いや態度、幸せになる条件について考え、もっともよい方向を教えることを目的とする。 言いかえれば倫理は人間にふさわしい生き方を模範として提案し、それを幸せへの道とする。

   しかし倫理と道徳を比較することはできない。 道徳は良い社会を作るために守るべき具体的な掟と定めで人々を縛り、社会生活の共同性を全ての人に与えようとする。 それに反して倫理は 個人の考え、判断、行いの自由を尊重する。 倫理は 真理を探し求め、命を尊重しながら、人を豊にする正しい道を案内しているが、人が自由にそれを歩むかどうかは 責任を持って、個人で決める。 倫理は様々な分野に関係があり、社会の諸問題に興味や関心を抱かせる。 例えば、生命論理、医学、情報、科学、技術、宗教、伝統、自然環境、諸費用、イデオロギ−、政治的課題、特に人間と関係があるものすべてについて 倫理は正しい知識や真理を持つ認識を与える。

   キリスト者は自分の信仰と聖書の教えに基づいて 倫理的な生き方や選び方を人生の中心とする。 すべての人に対して、また あらゆる状況の中で どのように正しく行い、良い判断を下し、人に害を与えない行動を取ればよいかを キリスト者は 道徳に従って決める。 それに加えて、自分の良心の倫理に基づいて正しく答えようとする。 キリスト者は 神の前でも、人の前でも 同じ振る舞いと行動を示す義務が基本である。 神の似姿に創られた人間は「神が完全であられるように完全にならなければならない。」(マタイ548節参照) キリスト教倫理は いつも「今までより、もっとうまく行うように 何をしたらよいか?」という質問に答えようとする。

   結局、キリスト教倫理は 神の目で物事を見、神の英知でそれについて考え、判断し、結論を引き出す。 そして、人間にふさわしい行動を通して 幸せへの道を開く。 ある意味でキリスト教倫理は キリストご自身の言葉「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ146)を具体化する。



国際性どういう意味でしょうか?

   
国際的な物事は 属している国や持っている文化や個人的な利益を越える。 国際性は、あらゆる面で 全人類にとって最もよい、適切な解決や方向、相応しい態度や判断を提案する。 こうして人々は長年にわたり、国際平和をめざして国際法を定め、国際会議を開き、国際理解教育に力を注いできた。 例えば、アムネスティー・インターナショナルや国際化学物質安全性カード、などである。 国際的という言葉は特に世界の国々の間にある相互作用を言い表す。 それと同時に、友情や共同の利益のために生まれた、小さなグル−プの間での、自発的な国際的つながりもないがしろに出来ない。 それらは 互いの理解、知識、発見と豊かさの分かち合いを目的としている。

   例えば、ヨーロッパの学校はアメリカの学校、アジアの学校はアメリカやヨーロッパの学校と国際的な関係を結ぶことで自分たちの教育のレベルを高め、またそれぞれの特長を魅力的に現わすようになる。 同様に第二次世界大戦で互いに戦った兵隊たちは、国際的な同窓会のような集いで、平和の喜びと様々な思い出を味わう。 世界のすべての国の科学者達には集って、世界の人々が安全で正しい道を歩むように共に考え、世界の平和を保つ必要と責任がある。 最近では、自然、動物、環境保護についても国際的に考えている。

   寛容、和解、赦しをもたらす国際的な関係は 間違いなく進歩と現代性の明白なしるしである。 例えば、国際結婚や国際的な出会いは 人種差別、外人嫌いの態度、盲目的愛国主義、などに対する効果的な「解決方法」である。 この面で、カトリックの教えは国際的な行動への方向性を与えている。 また、霊的にも、普遍的な使命を持っているから いつも正しい忠告と人間に相応しいアドバイスを与える。 外国の人々とのつながりは 必ず文明の発展を実現し、世界に調和と一致を与える。 オリンピック大会が作り上げる雰囲気はそれについて証している。

   さて、世界に真の幸せを与えようとするキリスト者は 信仰が求めているように すべての人の救いに気を配る。 キリスト者の生き方は 「カトリック」であって、それは、国際的よりも「世界的、普遍的、宇宙万物的」な生き方である。 「全世界に行って、全ての造られたものに福音を述べ伝えなさい」(マルコ1615)というキリストの言葉に従って、キリスト者は国際的、世界的な使命を果たそうとする。 宣教師にならなくても、信徒は祈りとミサ祭儀によって世界の人々を神の救いに導く。 更にキリスト者は世界に起こるすべての問題に対して深い興味を持つように務めるべきである。

   国際的精神は、互いの理解力、相互援助、共同的な行動と意思を要求する。 キリスト者は 誰に対しても自由な者であり、使徒聖パウロが語るように「全ての人に対して、全てのものになる。」(1コリント919-22) 確かに、国際的な精神は 人の考えと考察を広げ、行動を正し、豊かにし、新しい活動範囲を広める。 キリスト者はそれを目指して祈り、全てを神の目で見、神の耳で聞き、神の判断で決める。 自分と全く違う外国人や国を理解すればするほど 誰であろうと 自分を知ることが出来る。 そして、他人が持つ素晴らしさを味わい、知らない言葉を学び、色々な体験ができ、更に、違った文明の豊かさを分かち合うようになる。 キリスト者は「世界の幸せがこのような生き方にかかっている』と言うこを知っている。



壁に門を作ろう!

   誰であろうと、いつか、ある壁にぶつかる。 時々起こる思い掛けない出来事が、人との間の壁のようになってしまったり、または、自分自身もとんでもない壁そのものになることもある。 この壁を前にして無力と絶望を強く感じるので 人は望んでも、望んでも、中々それを乗り越えられない。 そうして、何をしたら良いが 全く分からずに、むやみにその壁にぶつかり続けるだけである。 この状態が長く続くと、まるで預言者イザヤが言ったように 人は「盲人のように壁を手探りし、真昼にも夕暮れ時のようにつまずく」(イザヤ5910

   この状態をフランスのことわざでは 「壁に頭を打ちつける」という。 壁のようになっている妨げが 外面的であろうと、内面的であろうと 人の希望と力を奪い取る。 例えば、病気は 人の体に怖れと苦しみの壁を作り上げ、悪くなった人間関係は 人の心に不信と怒りの壁を建て、更に 疲れやストレスや忙しさは 人の精神に不安とうつの壁を生み出す。

   このような壁に突きあたったり、壁を壊したり、避けたりするよりも むしろそれらの壁がもたらす質問に答えるほうが良いと思う。 大抵その答えは開かれる小さな門として自分のうちにある。 しかし その出口を見つけるのに ずいぶん時間がかかる。 キリストは「見よ、あなたの前に門を開いておいた。 誰もこれを閉めることは出来ない。」(黙示録、38)と言われた。 この言葉を理解すると、人の見方が変わり、必ず自分の内にも何かが変わり始める。 その結果、「無理」と言う状態は もはや「何も出来ない」「無力」の暗い状況ではなく、むしろ、今までと違った考え方や見方や、新たにされた力の輝かしい希望を生み出す場となる。

   信じている私達に「恐れの霊ではなく 力と自由の霊」が授けられた。(ローマ815) この聖霊は心を広げ、平和を与え、そうして全てに新鮮な息吹を吹き込む。 私達は人生の厳しさを通り抜けたり、悲劇的な出来事を防いだりすることが出来ない。 しかし、悲劇的な出来事を乗り越え、特に励みとなり、希望を取り戻す言葉を人々に聞かせる責任を求められている。 キリスト者の私達は主イエスの次の言葉を自分たちの言葉にする必要がある。 それは 「私は門である。 私を通って入る者は救われる。 その人は、門を出入りして自分を養うものを見つける」(ヨハネ109)という言葉である。

   勿論、私達は他の多くの人達よりも強くない。 しかし、私達の証によって、神の力は効果的に働き、人を救う。 「壁に耳がある」という諺は本当だ。 だから、壁に囲まれている人に希望の言葉を叫ぼう! ちょうどこの叫びが エリコで吹き鳴らされたラッパのように、私たちの内にある全ての壁を壊すことが出来るように・・・ これらのチャンスを逃すことなく、神の望まれる言葉を叫ぼう。



信じるとはどういう意味でしょうか?

   「信じなさい、救われるから」とか 「見ないで信じる人は幸い」とか、キリストの言葉の意味を変えて、人が言いがちである。(マルコ16,16)(ヨハネ20,29)勿論信仰は神の救いと永遠の幸せとに関係がある。しかし信仰は、先ず、第一に、神の無償の賜物である。 例えば、司祭が洗礼を授ける前に洗礼志願者に次のように質問する。「あなたは教会に何を求めますか?」洗礼志願者は「信仰を求めます」と答える。 いくら洗礼志願者が長年キリスト教をよく勉強したとしても、彼の知識は信仰ではない。 信仰は 人を神と一致させ、神を知り、愛し、敬う力と忠実さを与える。

   信仰は盲目的な信頼を要求すると同時に人の知恵と判断を土台とする。 しかし信仰は 知能と理性の活動の結果ではない。 誰も信仰を教えることが出来ない、しかし信仰は神の現存と存在に対してゆるぎない確信を与える。 信じる人は 日常生活の出来事を通して 神の実在を体験する。 その体験も個人的なものであり、それについて証し出来るが、同じ体験を他の人にさせる事が到底無理である。 と言うのは、同じ信仰を持っていても、人々の体験と証しは全く違っており、それにもかかわらず、不思議に一致している。 信仰によって人が神について体験した同じことを、他の人に体験をさせることは不可能である。 しかしこれについてその人はいつでも証しする事ができる。

   信仰は神の愛と結ばれているので、私たちが愛について説明できないように、信仰についても説明できない。 私たちは愛に生き、信仰に生きる。 この愛と信仰は永遠の幸せを与え、罪とあらゆる種類の悪から私達を救う。 愛も、信仰も証拠を要求しない、ただ 見ずに 「真実を喜び、忍耐強く、全てを信じ、すべてを望み、全てを耐え忍ぶ」(1コリント13,67)のである。

   人は「私の信仰が弱い」とか「信仰が足りない」とか言いがちである。 神への体験が足りなかったり、証しするのを恐れたり、自分がキリスト者であることをいう勇気がたりないから 人はそんな言い方をする。 しかし神の賜物として与えられた教会の信仰は完全であり、欠けているところが全くない。 教会の信仰は 神をありのままに見ている全ての聖人の信仰であり、聖霊は絶えずその信仰を強め、豊かにし、満たす。

   神と親密な関係を結べば結ぶ程 恵みとして授かった信仰が私たちに確信と希望を与える。 そして、私たちは 見ないで信じた事を いつか、全ての天使と聖人と共に はっきりと仰ぎ見ることが出来る。 私たちは「キリストを見たことがないのに信じ、今、見ていなくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴しい喜びに満ち溢れている。 それは、私たちが信仰の実りとして魂の救いを受けているからである。」(1ペトロ1,89



赦すとはどういう意味でしょうか?

   「“兄弟が私に対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか?七回までですか?” イエスは言われた。 “七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。”」(マタイ18,2122)。 赦しは神の無償の賜物として特別な力を持っている。 と言うのは、自分が人を赦せば赦すほど、自分も神に赦されているから。 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父も あなたがたの過ちをお赦しになる。」(マタイ6,14

    ところが時々人がそれを望んでも、人の過ちを赦せない状態に置かれる。 例えば、自分が受けた傷が深すぎて癒しがたい場合、あるいは その傷を与えた人が 全く自責の念にさいなまれないというような場合に、私たちは 中々人の過ちを赦せず、厳しい態度を保ち続ける。 残念ながら、この態度が遅かれ早かれ、盲目的な高慢の態度に変化する危険がある。 それを防ぐために、私たちは ご自分に対して罪を犯した人々の赦しを神に願ったイエスを真似なければならない。 「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23,34) イエスは自分を苦しめる人を赦さないが、彼らを弁明する。 それは、神ご自身が彼らを赦すためである。 このキリストの願いこそ、彼がまことの人であった事をはっきりと示している。

    キリスト者が人の過ちを赦せないと体験する時には、神に向かって次のように言うべきだと思う。 「父よ、今、私はある人の過ちを赦すことができませんが、いつか、聖霊の助けでそれをすると思う。 しかし、父よ、待たずに、私の名によって、その人の過ちをお許しください。」 このような祈りが自分にも、他人にも、神の赦しを与え、自分が受けた苦しみを和らげ、そうして救いの平和と喜びにまで導く。

    私たちは 人を赦す心を持つために、何回も人の過ちを赦すと同時に 自分も教会の秘跡を通して神の赦しを受ける必要がある。 確かに、自分が神に赦されれば赦される程 人の過ちをすばやく赦すことが出来る。 従って、自分と全く同じ過ちと罪を行なう人のために祈り、執り成す恵みが必ず与えられている。 そうして、更に、赦しを願うのは、自分に対して罪を犯した人のためだけではなく、むしろ、人類に対する犯罪人や世界中に満ちている大罪人すべてのために執り成す必要があると悟る。 これが自然に良い習慣となるなら、神の心の広さを知ることになる。

    「あなたがたは神に愛されている子供だから、神に倣う者となりなさい。」(エフェソ5,1) すべての罪人が 先ず神に、そして人々に、赦されるように取り成し、赦す心を持つ人は キリストと母マリアに似る者となり、義とされる。 なぜなら、キリストと母マリアが 神の前で、絶えず罪人の為に執り成しているから、彼らが死ぬ日まで引き続いて。

    事実、受けた、また与えた赦しによって 人は 神の救いの協力者となる。 これこそ全てのキリスト者が誇りを持って果たすべき使命ではないか?



恐怖と信仰とはどういう関係をもつでしょうか?

    創世記の始めから 黙示録の終りまで 聖書は恐怖と信仰、怖れと愛とを対立させている。 自然の災害や敵の攻撃にあった時、宗教的な畏敬と、人々が感じる恐怖とを区別する必要がある。 一方では、自分を超える出来事は 恐怖や無力やむなしさの気持ちにまで人を導き、他方では、 自分をはるかに超える神は、礼拝、尊敬、信頼と愛にまで人を導く。 神における信仰が 人間に安心感を与え、その上、全く人間的な恐怖を取り除くほど強い。

    しかし、恐れ、疑問、落胆、勇気の欠如が 信じる人の信仰を容易に奪うことができるのは事実である。 預言者イザヤは 臆病な人は「森の木々が風に揺れ動くように動揺する」に似ていると言い、むしろ、信仰は人に耐え忍ぶ力を与えると説明した(イザヤ7,1-9) 自分の感情のとりこになった人は 必ず疑い深い、信じない人となってしまう。 確かに、恐怖と絶望は 信仰を麻痺させ、神を遠ざける。 恐れの波を浴びせられている信者の力は恐慌に変化し、彼の未来は 不安と暗闇の雲で覆われている。 かえって、信仰は人に希望と力、勇気と飛躍を与え、神に対する盲目的な信頼を発揮させ、従ってその信仰は神を人のすぐ近くに引き寄せる。

    聖書は「恐れる事はない」と何回も繰り返しながら 信じる人々に忠告する。 なぜなら 神の名は「インマヌエル」即ち(神は我々と共におられる)だからである。 恐怖と不信から私たちを救うために、また、落胆をゆるぎない信仰に変化するために 神は、世の終わりまで、毎日、私たちと共におられる。 残念ながら その事実を信じるには 私たちは 心が鈍く、物分かりが悪い者である。 確かに、逆の方向に引っ張る思いがけない出来事の故に 自分たちのすぐそばに、支え、助けようとする神がおられる事を見ようともせず、私たちは容易に忘れてしまう。

    「恐れる事はない」と神は繰り返す。 恐怖と勇気の欠如が私たちを襲うとき、すぐ支えと慰めとなる親しい友や信頼の出来る人を探し求める。 それにもかかわらず、どうしてもっとも信頼でき、効果的に助ける事ができるキリストの力により頼まないのだろうか? イエスこそ、誰よりも私たちのすべてと 必要とするものを知り、彼の慰め、励まし、力づけのしかたが完全であるのに。

    恐怖の真只中でイエスを受け入れようとする人は 必ずその恐怖に打ち勝つ。 なぜなら、その人は自分の内に神の限りのない愛を受け入れるから。 使徒ヨハネが次のように書いている。 「愛には恐れがない、完全な愛は恐れを締め出す。」(1ヨハネ4,18) すべてのキリスト者がこの神の愛を体験しなければならない。 神が私たちの人生で第一の場所を得ない限り、恐怖や疑問、不安や苦悶が、絶えず私たちを攻撃し続ける。 思いがけない出来事に直面しても、希望を失わないように キリストが私たちの考えと祈りの中心に留まっていることが必要である。 不安定な物事で、私たちの信仰が空しくならないように、キリストが私たちの日常生活の友でなければならない。

    イエスでさえ死を直面して恐怖を感じ、弟子たちの無理解や群衆の反抗に対して落胆と失望を体験した。 しかし、イエスはいつも 夜を徹して祈り、神の愛で御自分を力づけた。 神の愛は恐怖や不安の解毒剤であるから。 私たちの心の中に怖れや苦悶、絶望や落胆が嵐をおこしたら直ぐ神の愛の方へ走ろう。 イエスは、特に、人生の荒波の上を歩くように教えているから 必ず 私たちをしっかりとした安全な場所に導く。(参照マタイ14, 27-31

    「我々と共におられる」神は 「来なさい」と言われる。 私たちは「人を恐怖の奴隷とする霊ではなく。神の子とする霊を受けた」(ローマ8,15)。 だから、恐れずに神に近寄り、その限りのない愛から十分に力と勇気を汲んで、自分の身につけよう。 そうすれば 私たちの信仰を奪うことができるものは全く何もない。 恐怖と苦悶の時に「信じない者ではく、信じる者になる」ように(ヨハネ20,27何よりもまず「おそれることはない」と言われる神に大急ぎで近寄り、全身を尽くしてより頼もう。



生き方を調整しましょう!  人生を調弦しましょう!

    全ての弦楽器は大気の変化に非常に敏感である。 この種類の弦楽器は他の楽器の音に合わせるように音楽家が絶えず調弦する。 様々な変化に対して敏感である私たちの人生についても同じことが言えるのではないか? やはり、命は バイオリンやハープやチェロやギターのように微妙に繊細であると同時にもろいものではないだろうか? 私たちの生き方はとても壊れやすいものである。

    乱脈で、思いがけない出来事、急に襲ってくる災害のせいで 私たちの方からは音楽がもう出てこない事があるのも事実である。 更に、私たちが犯した罪のせいで、私たちの音を神との一致の音叉に合わせる必要があるに違いない。 調和を作り上げるこの小さな「ラ」と言う調律の音符に合わせるために 時間を取るのは肝心である。 さもないと、決して皆と一緒に、皆と合わせて自分の楽譜を演奏出来ない。

    神が私たちを創造したのは 賛美と感謝のためで、決して不協和音と耳障りな音を出すためではない。 
「神は、聖所におられ、イスラエルの民の賛美の上に坐する方」であることを 詩編22,4は教えている。 苦情や不平や不満のためではなく 賛美するために 私たちは造られ、さらに、天使の歌声に合わせて永遠に歌うように命の恵みを受けた。 確かに、賛美と感謝は天使と聖人の特徴であり、それに自分たちの声を合わせるなら、私たちが天国の雰囲気や天使と聖人の交わりにあずかる。

    賛美と感謝を歌う事は信仰の選びであると同時に信仰の行いと信仰の態度(姿勢)である。 それによって、私たちに 神や人や物事の神秘性を探るために 新しい眼差しを与えられている。 そういう訳で私たちの生き方が あらゆる面で、神と一致するように、絶えず調律する努力が不可欠である。 神と人々との一致を失う理由は 私たちが もはや出来事や物事を大切な印としてではなく、ただ、普通の出来事や物事として見るからだ。

    目に見える出来事や物事を 人と出会い、助け、励まし、慰めるための誘いの印として見れば、必ず 私たちの人生が神の楽譜と一致し、従って、調和とハーモニーは世界に満ちる。 神を賛美する人、また、人に感謝する人は 決してこの世界の苦しみや災害を忘れない。 しかしながら、賛美する人の心から出て来るメロディが 他の人々に「ありがとう」や「心から感謝します」を言わせるのに力となる。 すべての困難と思いがけない出来事の真只中に置かれても 神と人々の心の音叉に自分の生き方を合わせる人は 自分の幸せを保ち、打ちひしがれている人に希望を与え、明るい未来の門を開く。

     有名なインドの詩人タゴールは神に次のように願った。「私が頂いた命を真っすぐで、単純なものにしたい、ちょうど、アシ笛のように。 それは、あなたが神よ、このアシ笛から限りのない美しいメロディを引き出すように。」

     同様に キリスト者である私たちは 神の手の中にあって、正しい音や美しいメロディを引き出す楽器となるように、絶えず、私たちの生き方を調整することが不可欠であると私は思う。


喜びのしもべたち

    ひどい状況の中に置かれている時に パリ外国宣教会の神父たちは「それにも拘らず、喜びに万歳!」と言う習慣がある。 また臨終の時が来たと分かると、天を目指すパリ外国宣教会の神父は 仲間たちを呼び集め、一緒にシャンパーニュを飲み、喜びの雰囲気の内にさよならを告げる習慣もある。 使徒パウロも「私は、あなたがたのために苦しむ事を喜びとする」(コロサイ1,24)と宣言した。 楽天主義の聖パウロとフランス人の神父たちは ぶどう酒のビンを見る時 「残念だ!ぶどう酒が半分しか残っていない」と言わず、むしろ「ああ、良かった!半分も残っているよ!」といいがちである。

    本当の喜びは感情や精神の良い状態から表れない。 喜びは聖霊の賜物として いつも神から来る。 しかし、人間の息吹きのように とても弱いその喜びが強くなるために 人の心に二つの傾向が要求される。 それは感謝と信頼である。 過去の出来事と神から受けた様々な恵みを思い起こす感謝は 私たちが生涯に亙って出会った人生の道ずれの人々に対する大きな感謝の念を表わす。 信頼は 自分自身に未来の扉を開き、また、残っている人生に対する神の摂理を盲目的に信じるゆるぎない力と希望を与える。

    そこで、喜びを迎えるためには 人々と出会いたい決意や開かれた心を持つことが必要不可欠である。 使徒パウロは次のように書いた。「私は、あなた方の信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力するしもべである。」(2コリント1,24) 一体、どのようにして「喜びのしもべ」になるのか? 他人の喜びを世話する必要性があるのか? むしろ自分自身が持っている喜びをきちんと守る必要があるのではないのか? 自分自身のうちにある聖霊の喜びの飛躍を他の人に与からせる事が出来るのか?

    ある修道会の戒律が次のように勧めている。「一つ、あなたが与えたい世話の内に生き生きとした喜びを入れなさい。 絶対に人の肩に重荷となる物を背負わせてはならない。」 この簡単な定めは 喜びが 重すぎる物事を軽くする事を思い起こさせる。 いくら与えようとすることが献身的な世話であろうとも それが喜びをもたらさないなら その世話は無意味である。 自分自身を他人の喜びとすること、また出合う人を自分自身の喜びの泉とすることは これこそ神ご自身の喜びに与かることである。 何故なら、神は世の初めから 永遠にそれを行なわれるから。 確かに、与える喜びは 神を人々のすぐ傍に引き寄せる。 預言者ゼファニヤに言われた事をここで確かめる事が出来る。「お前の主なる神はお前のただ中におられ勇者であって勝利を与えられる。 主はお前のゆえに喜び楽しむ》(セファニヤ3,17

    だから私たちは他人に対して、かつ、自分自身に対して注ぐ眼差しが新たにされるように努めよう。 というのは、神は 御自分を喜ばすために私たちを創造されたからで、神の似姿として造られた私たちも 神の内にあって 大いに喜ぶように召されている。 神の喜びのしもべとなる利益がここにあると私は思う。 「やはり、喜びに万歳!」


スペアタイヤであるキリスト者。

    車のタイヤがパンクした時に 人はすぐに置いた場所からスペアタイヤを取り出して、パンクしたタイヤの代わりにそれを使います。 思い掛けない時にパンクして、 もし車の中にこの大切なスペアタイヤがなければ 修理してくれる自動車が来るまで、車はもう動けません。 確かに、車のタイヤが問題を起さない限り、誰もスペアタイヤの事を考えません。 ある意味で、スペアタイヤが目立たないから、役に立つようになるまで 謙遜で、忍耐強く自分の時を待っています。 また、利用されているスペアタイヤが 残っている丈夫な三輪のタイヤと完全に一致しているので、知らない人に聞いても、四輪の内にどれがスペアタイヤであるか その人は中々答えられません。

    キリスト者は 自分の家族をはじめ、全ての人のために スペアタイヤのようになる使命を受けています。 例えば、自分の家族のメンバーが教会にもう足を運びたくないと分かったキリスト者は、ただ自分だけが 信仰を忠実に生きようとするなら、このメンバーに代わって、彼らの分を背負って 教会へ行きます。 そこで、キリスト者は 出席したくない自分の家族の上にも神の祝福を願い、神のいつくしみに皆を委ねます。 また、人が自分に打明けた問題や悩みを大事に持って、その人の名によって、それらを自分の問題と悩みとして 神のもとに持って行き助けを切に願います。 ミサという感謝の祭儀の秘跡を通して、イエスと一つの心、一つの体となるキリスト者は イエスと共に、全ての人の救いのために、神に喜ばれる聖なる生ける供え物として自分自身を捧げます。(ローマ12,1

    人の信仰がタイヤのようにパンクしたなら キリスト者は すぐスペアタイヤのようになって、謙遜に、目立たない内に、人を助けるという尊い使命を果たさなければなりません。 丁度、主イエスが 全ての人の救いのために自分自身を捧げたように、キリスト者も 全ての人の救いを願って、自分自身を神に捧げます。 つまり、それは人を「死から復活」へ導くためです。 疑いもなく、この役割を果たす事によって キリスト者は「これを私の記念として行ないなさい」と言われたイエスの願いを完璧に実現します。 ミサ祭儀の際にキリスト者は 主の十字架のもとであらゆる時代の問題や困難や罪を神に差し出し、提示すると同時に この世のために取り成し、必要とする恵みと助けを神に切に願います。

    神が「あなたの兄弟がどこにいるのか」(創世紀4,9)と尋ねる前に、キリスト者は心構えを忘れず、すぐに、世界のニーズを神にはっきりと提示する義務を持っています。 確かに、一人一人のキリスト者が すべての人を兄弟姉妹として認め、彼らの番人であり責任者です。 良い時も、悪い時も、キリスト者は主イエスに倣って、絶えず人の霊的であると同時に、物質的なニーズのために祈る人です。 更に、必要なら時間を捧げ、相手の問題を自分のものにし、神に全てを委ねて生きる人ででもあります。 キリスト者は自分のためにも、人のためにも祈ることは利益があるとよく知っています。 目立たないスペアタイヤのように キリスト者は 全人類に対する自分の責任を取って 神の愛に生かされ、心、魂、知恵を尽くして 全ての人を自分の親しい兄弟姉妹として受け留めるのです。

    車の中に置かれているスペアタイヤは ただ一輪だけです。 同様に、この世の中で置かれているキリスト者の数も 非常に少ないです。 しかし、彼らは皆、世の救いのために必要不可欠な者です。「わずかなパン種が 練り粉全体を膨らせます」から。(1コリント5,8



                                    幸せの扉

  「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ713-14) つまり、幸せを手に入れるには謙遜の態度が不可欠だとイエスは教えています。

    幸せを得るために例え話の門は二つの違った方法を差し出します。しかし、人は門の開け方を知っているでしょうか? キリスト者である私達は 神の親しい現存の内に永遠の幸せがあるとよく理解しています。 ですから、神と出会うために何でもします。 それにもかかわらず、神と私たちの間に 丁度例え話の門のように、妨げとなるわけ隔てるものがあるのも強く感じています。 私たちの永遠の幸せが神の内にのみあること、そして神の内に留まる条件でその幸せに預かる事が私たちにはよく分かります。 ですから、神の近くにいるために 出来るだけこの妨げとなっている扉を叩き、また開けにくい扉を力強く押し付けて無理にあけようとします。 残念ですが、私たちの努力は中々開かないこの扉にたいして、空しく力を注ぐだけです。この大切なことを忘れるなら、いつまでたっても、神が扉を開けようとしているのに。私たちが閉じようと動力するわけです。

    不思議な事に、この扉は更に強く押し付ければつけるほど、また我慢強く叩けばたたくほど、抵抗します。 何故でしょう? 答えは非常に簡単です。 この扉は自分の考えている側ではなく、反対側から開けられるからです。 この扉を開けるには押し付けるのではなく、引き寄せるのが必要です。 更に、私たちはもう一つの大切な事実を忘れています。 即ち、いくら 神と出会うという私たちの望みが美しいものであろうとも、私たちと出会いたい神ご自身ののぞみこそ 第一だからです。

    幸せと言うのは、神が自由に私たちに追いつき、近くになることを謙遜に承諾する事です。奇妙なことに、また逆説的なことに、神が私たちに提案する幸せを受けるために、私たちはその幸せに対して、如何なる関係もないこと、どうにも出来ない事を認めざるを得ません。 使徒パウロはそれを上手に表現しました。 「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。 それは、誰も誇ることがないためなのです。」(エフェソ28-9

    やはり、神に通じる扉と道は謙遜の態度であります。 私達の永遠の幸せを考えたのは神ご自身です。 ですから、私たちが想像さえしなかったこの幸せにぴったり合うように 私たちの努力や功績や決定はこの唯一の目的を目指さなければなりません。 幸せの扉を開ける方は神ご自身です。 この幸せの扉を開いて神は、思い掛けない時に 必ず私たちの傍に来て、ご自分のあふれる愛で私たちの心と魂を満たすでしょう。 ですからゆるぎない希望と、目覚めている心で、謙遜に神の訪れを待ち望み続けましょう。

   神は幸せの道を共に歩きますから、彼が私たちの人生をあらゆる面で導くように切に願うことは肝心です。 そして、いつもイエスの言葉をよく理解して、思い巡らしましょう。「私は門である。私を通して入る者は救われる。 その人は門を出入りして幸せを見つける。」(ヨハネ109) 即ち、幸せの扉を一度通ってから 人はもう出られないということは決してありません。 神の親しさを体験する人は、全ての天使と聖人と同様に、その幸せの証人となって、他の人々にこの幸せの道を案内するために、絶えず、神の国に入ったり、出たりするからです。キリストにおける信仰が与える幸せの恵みは 何という素晴しいたまものでしょう!



                     
トップページに戻る